電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

さらば機動戦士Zガンダム(←「まだだ、まだ終わらんよ!」)

『Z GUNDAM HISTORICA』11号「宇宙を駆ける」(講談社)発売(isbn:4063671933)。
TVシリーズ版『機動戦士Zガンダム』プレイバックもこれで完結。
わたしは毎度のエピソードガイドの図とキーワードコラムと、コラム現実認知RealizingZで、「グリプス戦役の果てと「万人の万人に対する闘争」の時代」、巻末Sign of Zで、Zガンダム本編ではSF設定に携わった永瀬唯氏インタビューなどを担当。
わたしの担当した最後のコラム現実認知RealizingZは、ずばり、最初の、02号「星々の群像」カミーユ・ビダンの巻に書いた「カミーユの家庭崩壊とスペースコロニー化する日本」と対応してるつもり(思えば、同誌でのわたしの本格的な仕事は、編集の畏友Nの考えてた02号の同コラムの企画段階案が「カミーユ尾崎豊」だったのを、DVDで全話観返して、俄然「いや、最初のコラムは家族論にしよう」と修正案を出したことから始った)。「『Zガンダム』とは、小は家族から、大は国家まで、共同体のフィクションが信じられなくなってゆく時代を写した物語」というまとめは、この02号で、カミーユの両親フランクリンとヒルダの解説が「家族のフィクションを信じられなかった両親」と題されていることを踏まえている。
この号の見どころは、まず、満を持して登場の奈落一騎による「星々の群像」パプテマス・シロッコの巻だろうか。歴代ガンダムシリーズ中、劇中での戦闘力もモテ度もピカイチとなっていながら、多くの観客には「結局何がしたかったのかわからん男」と評価されてるであろうシロッコをズバッと解剖、「シロッコは実はシャアより女に優しい。でも、それが敗因」、という視点は、多分ほとんど指摘されていないはずである。
そして、この後に続く、永瀬唯氏インタビュー、宇野常寛氏の「シロッコの敗北と「自意識」から逃げられなかった「ニューアカ」」、藤津亮太氏の「「アニメの青春」の終わりに、『Z』が築いた混迷の時代の「礎」」は、ひとつながりのものとして読んで頂きたい。要するに、これは『Z』をひとつの視点の入り口とした、1980年代のアニメ・オタク文化サブカル、思想シーンの全体総括である。

時間の止まった時代

永瀬氏のインタビューからは、ファーストガンダムのブームが多くの若手アニメクリエイターを育てた事実、『ガンダムセンチュリー』*1では、当時としてはまだ「たかがアニメ、子供のオモチャだろ」という位置づけでしかなかったガンダムを、既存の日本の娯楽映画史の中に位置づけようと努力していた背景などがが改めて浮かび上がる。
(ちなみにこのインタビューでは、余談で、富野由悠季監督が学生時代を送った60年代の日大芸術学部の空気(学生時代の富野監督は、自治会に入らされてたんだが、この自治会ってのが学内右派の巣窟で、しかし、当時の映画青年はおおむね心情は左翼だったので、非常にアンピバレンツな青春を送ったのではないか?という……)などの話も聞き、これはこれで面白かったのだが、あくまで伝聞+憶測で、当人の確認もないので割愛)
さらに「シロッコの敗北と「自意識」から逃げられなかった「ニューアカ」」のコラムでは、誰が言い出したか定かでないが、一部でよく語られる「シャア=全共闘崩れvsシロッコ=それにツッコミを入れるニューアカ」の図式を改めて露悪的に解説。
そして「「アニメの青春」の終わりに、『Z』が築いた混迷の時代の「礎」」では、ガンダムに始る80年代アニメブームがオタク文化の最初の青春(「二度目の青春」はエヴァンゲリオン以降である)だった点が再検証される。
思えば、かつて1987年、当時わたしの住んでた福岡にバンダイ・エモーションの新作上映イベントで来た庵野秀明は、会場からの「日本のアニメ界は今後どうなりますか?」との問いに、アッサリ「冬になります」と答え、場内は大爆笑に包まれたが、実際、現実は爆笑で済まなかった。確かに、アニメ業界全体は経済的に潤い続けても、アニメ誌は次々休刊、ガンダムを超える、本当に高年齢層に訴えうる作品は、良い意味でも悪い意味でも、その庵野当人のエヴァンゲリオンまで絶えてたのだから。
いや、この際ミもフタもなく言って、80年代後半から90年代前半の一時期、高年齢層が「真面目で難しい人間ドラマをやるアニメ」にウンザリして、メカと萌えだけで別にいいや、となってしまったきっかけを作った張本人が、神経症アニメのZガンダムだった、という見方もできる――が、良い意味でも悪い意味でも、Zガンダムという「TVアニメでここまでギスギスした神経症人間ドラマもあった」という前例あってこそ、エヴァンゲリオンだって出てきたんだろうし(富野監督当人はこの言い方を嫌がるようであるが)、その風下の今のセカイ系もあるわけだろ、という話になる。
さて、「シロッコの敗北と「自意識」から逃げられなかった「ニューアカ」」のコラムでは、シロッコは、彼(と浅田彰らの80年代ニューアカ思潮)が一番バカにした、若者の「自意識」の増長に負けた、現実の90年代もそうなった、と述べているが、なぜそうなったのだろうか?
結局、即物的に言うと、衣食足りて、自分の内面しか興味がなくなった、ということではないのか?
そもそも、「ニューアカ」とセットで、80年代によく言われた「ポストモダン」とは何だったかというと、要するに、高度経済成長が達せられ、建設や生産といった時期が終わり、それまで、そのために必要とされたイデオロギー(皆が貧しく、それゆえ、一蓮托生、一致団結するための掛け声としての「愛国」だったり、また「社会主義」だったり)が必要なくなりました、つまり、消費しかなくなりました、ということらしい。
しかしそれって、言い方を変えれば、何の進歩もなくなった、時間が止まった、ってことなんだけどね。
1983年1985年のアニメ『メガゾーン23』では、閉じた宇宙都市の中で永遠に1980年代を模した空間が広がっているわけだが、その理由は、生意気にも「80年代とは、当時の人間に『今が一番良い時代』と思われたから」となっている。
で、皆が貧しく、それゆえ、一蓮托生、一致団結するための掛け声としての「愛国」だったり、また「社会主義」だったりが必要だった時代は、世の中全体の目標とか、敵とかがあって、そっちに意識が集中してた。でも、それがなくなったら、自分の内面、あるいはすぐ隣の居る人間(異性とか親とか)がわからない、というのが一気に一番の問題になってしまった、というのが、90年代が「自意識」の時代となった理由なのだろう。
(もっとも、ネット時代の現代に至っては「自意識過剰は恥ずかしい」と言って、メタ的に他人の自意識をあげつらうことが自己目的化しすぎた結果、逆に「他人を自分がどのように見ているのかが気になって仕方がない他意識過剰」という病もあるのだがw)
だから、あえてベタベタに時代象徴性の当てはめをしてくと、まあこんな感じか――

    • 60年代〜70年代前半:「巨大な悪」に対する団結と連帯のロマンが成立しえた物語=『太陽の王子 ホルスの大冒険』『宇宙戦艦ヤマト
    • 70年代末:「巨大な悪」に対する団結と連帯が壁にぶち当たる物語=『ガンバの冒険』、『ザンボット3』
    • 80年代:もはや善悪二元論自体成立し得ない物語=『機動戦士Zガンダム
    • 90年代:正義とか理想とか言ってるとカルトになるんですという物語=『機動戦士Vガンダム*2
    • 90年代:もはや敵が何かもわからないが、むきだしの個人が不安に向かう物語=『新世紀エヴァンゲリオン

さて、では、その後に続く現在「万人の万人に対する闘争」の時代たる(?)00年代を象徴した作品は何なのだろうか。わたしの不勉強のためか、アニメでは浮かばないが、もっとも時代象徴的なのは『仮面ライダー龍騎』かな、と半分マジで思っている。
すでにショッカーのような「巨大な悪」は当然なく、主人公側にさえ建前としての正義さえなく、13人の仮面ライダーたちが、自分個人が不老不死になりたいとか、戦いそれ自体をゲームのように楽しむためとか、あげくの果ては金のため(!)に戦うという『龍騎』は、まさにミもフタもない「万人の万人に対する闘争」そのまんまである。そんな同作品を渡し個人は好きか嫌いかで言えば好きではない、実に落ち着かない(好きかどうかでいえば『鋼の錬金術師』の方が好きだが、皮肉にもこっちこそ正当70年代石ノ森章太郎ヒーローの復活である)。
それにしても、70年代はヤマト、80年代はガンダム、90年代はエヴァと言われたわけだが、00年代オリジナルでそんだけの波及力のあるものは出てこないのだろうか。もしこのまま出てこないのであれば、やっぱり、時間は止まってしまったということなのだろう。

*1:1981年にみのり書房から発売されたムック。この本で、当時20代半ばの永瀬氏は、富野監督と、映画批評家白井佳夫らを囲んでの座談会をやってる。

*2:この作品での敵「ザンスカール帝国」は、母性原理(フェミニズム)、と地球浄化(エコロジー)、ヒーリング(癒し系)を掲げる組織である。それがギロチン使って敵対勢力を大虐殺である