電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

朱に交わればアカくなる

ところで唐突であるが、わたしは激烈な差別主義者である。
水木しげるの『劇画ヒットラー』で、童貞時代のサエないヒトラーが、すべてのドイツ人処女はユダヤ人と口をきいただけで梅毒がうつると非科学的迷信をわめいてたように、「消費者金融や証券会社やクレジットカードローン会社の勤務者=ケガレた資本主義のブタ、関わるとこっちまでヨゴレる」と、迷信的に思い込んでいる。
そーいう会社に勤務していようと、善良な普通の人なんだって? ハァそんなことは百万年も前から知っている。つーか、その人が消費者金融や証券会社やクレジットカードローン会社を辞めさえすれば、もうその瞬間から一切そんな差別はしない。
これはもう(間違った)ケガレ意識である、エンガチョ、と思っているのである。
だが、正直に告白すると、わたしは過去に一度だけクレジットカードを使ったことがある。仕事の資料でどうしても必要な本がAmazonでしか購入できなかった時である。
この時は「俺もクレジットに関わってしまった→ヨゴレた」と思った(←まあ、笑う人は笑いたまえ。カード破産を一切恥じないような人は)

「あれはウチの子ではありません」

さて、以前この「電氣アジール日録」ブログの編集欄の「リンク元」を見ていたら、「スーフリ + 和田 +在日」というキーワードがあった。
わしズム』最新Vol.19号に切通理作も書いているが、この2、3年ばかり、ネット上では、何か事件が起きると、脊髄反射のごとくその犯人を指して「在日だ」と言ってみる傾向が顕れている。
まあ、半ば自覚的に「ネタ」として行なわれていることだろうが、「犯人が在日だったらいいな」という願望は本音だろう。
これはわたしが、浅はかな偏見で、消費者金融や証券会社やクレジットカードローン会社の勤務者は一切すべて穢れているッ! と思いたがっているのと同じ構造である。
何か異常な犯罪者、自分たちの平和な共同体秩序を乱す者が出現した場合、「それは自分の身内じゃないで欲しいな」と思う感情自体は、人間としては一応自然なものだろう。
かつて1997年に神戸市須磨区酒鬼薔薇聖斗の事件が起きた時、犯人が捕まるまでの間、周辺住民は「早く捕まって欲しい」と強く思いながら、同時に、同じぐらい強く「うちの須磨区の人でありませんように」と思っていたという。果たせるかな区内の中学生が捕まると、逮捕されて嬉しいより区内から犯人が出て戸惑っている感情があったと報道された。
共同体秩序に安住して生きる多数派にとって、たまに顕れる異常な犯罪事件を起こす人間とは、その共同体の外部からやってくる異人、異物、人外のモンスターであってくれなくては困るのだ。
だってそうだろう、同じ地元の善良な仲間と思っている人間からそんな「怪物」が発生しては怖くてたまらない。それに、そんな突然変異的な「怪物」のせいで、同郷の自分まで同類に見られるのはたまらない……そこで「エンガチョ」となる、ケガレを押し付け、自分の身内からは分離分割となる。

「一切清廉潔癖な日本人の僕ら」が好きな僕ら

前から思っていることであるが、今の若い自称愛国者というのは、戦時中の日本兵というものは、一人残らず一切清廉潔癖の聖人君子で、戦時中の民間人虐殺などというものは(間違ってやった事や、本ッ当にやむを得ない事情があったとしても)まったく一切、一件もない、すべて完全に全部が中共や韓国の捏造と本気で信じているのであろうか?
当然、中共の主張は大幅な水増し誇張が入っているにしても、一件残らず全部が捏造などということはありえまい。
急いで付け加えるが、大体、戦時のドサクサの民間人虐殺など(誤認による場合のケースも含め)、日本に限らず、どこの国もやってる。戦勝国支那だって、アメリカだって、旧ソ連だってやってる。日本ばかりが特別凶悪なワケなどない。
南京では、虐殺された民間人というのは実は一般市民に偽装した便衣兵だと言われ、事実大多数がそうだったのだろうが、わたしは、人間心理として、便衣兵に囲まれた恐怖の余り、うっかり本物の民間人もちょっと殺してしまった日本兵がいたとしてもおかしくないと思うし、そのような日本兵はむしろ大いに同情して弁護したいと思っている。
2005年7月放送の朝まで生テレビでは、元日本軍の兵士だったという人が多数出演し、中にはかなり大東亜戦争を肯定的に語る人もいたが、最後に田原総一郎が乱暴に「南京で虐殺はあったと思うか?」と問うと、その大東亜戦争に肯定的発言をした者も含め、実際に南京にいなかった者まで、規模はさておき、虐殺というべきものはあっただろうという意見に挙手した。南京は実際に見てなくても、それぞれ自分の行った地域で(信頼できる上官、戦友からの伝聞も含め)ある程度は民間人の虐殺のようなことも少しはあったのを見聞したからだろう。
実際その手の話は、古山高麗雄の実録戦争小説で、南方の戦線で「匪賊狩り」と称して村を焼き払う場面など、多くの体験記に書かれている。
が、どうも今の日本の若い自称愛国者というのは、この手の話を一切残らず中共や韓国の捏造だと思いたがっているように見える。
――これって要するに、(たとえ間違ってうっかりやった事だったり、本当にやむをえない事情があったり、数件がホンのわずかでも)民間人虐殺をやるような人間が同じ日本人だなんて、同じ日本人の自分もケガレるようでいやだ、というケガレ意識なんじゃないの? と感じている。
小林よしのりは意外にこの点正直らしい。件の『わしズム』Vol.19での大塚英志香山リカ鈴木邦夫富岡幸一郎との座談会「『戦争論』以後」では、

わしは爺さんたちが虐殺もしたかもしれんということすら、言いたくないのよね。もちろん、戦争に行ったんだから、人は殺しただろうけど、それを責める気にはなれない。

と発言している。
要するに、大真面目にきちんと突っつけば虐殺と呼ぶしかない事実は(うっかり間違っての場合や、本当にやむをえなかった場合の可能性も十分あるが)ありえる、と、理性では理解しているが、感情では、爺さん連中をムゲに悪者扱いしたくない、と言ってるのだ。
この際ハッキリ言うが、仮に過去の日本人にケガレがあっても、それも全部含めて日本を愛す、肯定する、というのが真の愛国者ではないのか? ケガレた日本人だけはウチの子ではないよそ者、異物、エンガチョ、と切り捨てる発想は、結局、愛国心でも何でもなく自己愛でしかあるまい。

では諸君、こう発言するわたしを差別者として差別せよ!!

ちなみに、今さら言うまでないことだが、わたし自身激烈な差別主義者であるから、わたしは、「スーフリ和田は在日であって欲しいなあと思う人間」は差別者だからイケナイ、などという寝言はホザかない。
ただ単に、人間としてダセェと思うから一切共感しない、そんだけである。