電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

最小活動期

もう二月も終わりであるが、このブログ日録、昨年も一昨年も、三月中は一切何も書いてない。毎年この時期は仮性引きこもりのような生活で、無気力病との戦いになりつつある。
理由は単純で、まず花粉症のシーズンだからである。
現在のわたしは、なまじ「出勤」ということをしなくて良い身分なので、花粉の飛んでる日中は、必要がなければ外に出ない生活を送れる。部屋に一人でいればくしゃみも鼻水も出ないし、出てもそれで迷惑をかける相手もない(無論、取材だミーティングだとなれば勇んで鼻炎薬を飲んで出かけるけれど)。しかもまだ寒いから布団の中が一番気持ちよい、それでうっかり、急ぎの用がなければ、下手をすると12時間ぐらい寝ていたり、午後3時とかいうふざけた時間にやっと布団から這い出ることもある始末だ。
日が暮れると植物が光合成呼吸を止めるので花粉散布も止まるから、買い物や本屋、図書館などに行くのは夕暮れになってからだ。
別にまったく何もしていないわけではなく、その都度目先の仕事も必ず何かあるのだが、覇気いっぱいとは言い難い傾向にある。
仕事上、担当編集者さんが用意してくださった資料が揃わないと書けないとか、取材が決まらないと取り掛かれないとか、他の執筆陣の担当箇所が上がらないと取り掛かれないとかで、その都度「待ち時間」があり、ではその間、何か他の本を読むなり有効に活用すれば良いのに、「仕事をするために部屋にいる」のではなく「外に出られないから部屋にいる」というつもりで部屋にいると、どうしてもだらけて意気があがらない。
(これが夏場であると、午後は暑いから図書館に退避するのが日課で、図書館に来たからには絶対に居眠りせずに、仕事関係の資料なり何か読むのだが、これは「他人のいる場で居眠りはみっともない」という意識があってこそだ)
で、毎年三月頃になると、トーマス・マンの『魔の山』を取り出し「今年こそ読破するぞ」と勇んで挫折、というのが続いていた。作中のサナトリウムに幽閉されたハンス青年を自分が地で行ってるようでしゃれにならない(まあ、わたしは自発的に自分を幽閉してるわけで、それも陽が昇ってる間だけだが)。
そんな具合で、パソコンの前に座って、ニュースサイトやそれについてのブログや掲示板での風評などを眺めてダラダラ過ごしてるうちに、外が真っ暗になり、杉の木も檜の木もお休みになった頃、やっと買い物にでも出かけると、本来人ごみ嫌いのはずなのに、群集のいる雑踏に紛れるとなぜかほっとし、帰って晩飯を作って食ったらやっと仕事に取り掛かり、夜半過ぎ頃、レンタル屋で借りてきたDVDを観たり、古いゲームを引っ張り出してリロードを繰り返してると、ふと気づいたら朝刊配達のスーパーカブの音が聞こえる時間になってるので床につく。翌日、その繰り返し……とかいう次第だ。
だったら何でも陽の高いうちに済ませとけ! という感じである。

人間は一人でいると停滞する

さて、かような無気力傾向の原因は、ある意味、軽度の拘禁ノイローゼのようなものなのか、いや、単に俺はサボり癖を花粉症のせいにしているだけなのか、などと考えていたのだが、最近、臨床心理学的によく腑に落ちる説明を目にした。
要するに、単純な話、人間は、刺激のなすぎる状態には耐えられないのだそうだ。
その昔、カナダの心理学研究者が、「一日中部屋にいて、メシとトイレ以外はベットから動かず、目も耳もふさいいること」という条件を守れば高額の日当を出すと言って被験者を募り、感覚遮断実験というものをやってみたら、被験者は喜んで参加したもの、みんな三日ともたなかったという。案の定、被験者は最初はずっと寝ていようとしたが、そのうち寝るのにも飽きて眠れなくなったそうだ。
実に良くわかる話である。
その昔、汎田礼氏は
「子どもは子ども部屋の中でたった一人で大人に“なっていく”のではない」
と書いていた。(『永久保存版』30号 91年12月
真性引きこもりなのに正気を保てている人間は、皮肉や嫌味抜きに大したものだと思う。
――さて、いきなり話が飛躍するようだが、そうした意味でも、それこそ感覚の遮断された密室に一人でいながら強靭な意志力を維持し続けた水上特攻隊員、「人間魚雷回天」の乗員なんていうのは、本当に頭の下がるべし存在だったと思うよりない。
回天は窓一つない一人用の鉄の棺桶である。その場には自分一人しかいない、逃げたくもなるのが人間の本音だ。だが、特攻隊員たちは、己の内面に、靖国にいるほかの戦友、あるいは天皇、あるいは故郷の父母兄弟などを置くことで意志を支えたのであろう、というか、半ば周囲の強制で、半ば自ら、そういう風に自己を律していたのであろう。
皮肉な言い方をすれば、フーコーの言うパノプティコン効果(見張り塔に人がいなくても、見張り塔の存在自体が人に「監視されてる」という緊張感を与える)の一例か。
人間は「無意味な死」に耐えられない。意地の悪い言い方をすれば、嘘でも便宜でも、俺は祖国のため、大義のため、あるいは愛するもののために死ぬ、と思わなければやってられない。岡本喜八の映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』では、熱狂的愛国心なんか別にないまま特攻隊員になってしまった学徒兵の一人が、出撃前に女に逢いに行く時「祖国を探してくる」と言っていたのが印象的だった。不謹慎ながら、人の生き死にが関わると、人間の性の本質が良く分かる。
わたしも、いっそ部屋に神棚を作るか、そこまでしなくても、親父の遺影を目立つ場所に掲げれば、嫌でもサボれない気分になるかも知れない。
――とりあえず、本日の日録は「今年の三月はだらけず活動すっぞ」と公言して自らを律するためのものと受け取っておいてください。

看板に偽りはないがあくまで入り口也

ところで、無気力話つながり(?)、このブログ日録へのリンクを見ると、いまだに『人間関係がニガテでもうまくいく天職ガイド』(isbn:4331511170)について検索してたどり着いた方が時おりいるらしい。本書については、05年9月1日の日録
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20050901
で詳しく触れております。
ハッキリ述べておきますが、この本、完全在宅の仕事は全体の1割ぐらいしかありません。だから、あんまり期待されすぎると、タイトルに偽りアリ、羊頭狗肉といわれるかも知れませんが、それでも執筆陣と編集者としては、一生懸命「極力」「どちらかといえば」人と接しないでできる仕事を探しました。
あと、正規就職ではなく「潜り込む」としか言いようない、ミもフタもなくいえば、コネがなきゃできない仕事も含まれてますし、よほどの技術と恨性がなければ務まらない仕事もあります。
人間関係から完全にフリーな生き方などありえないが、うまく行かないなら、うまく行きそうな場と技術を模索してみる、ってのがコンセプトなので。