電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

21世紀になっても本音を言えぬ日本人

お堅い金融機関 クルービズの波 三井住友銀、全店で実施
6月27日8時34分配信 フジサンケイ ビジネスアイ
 ■来月から環境重視アピール
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070627-00000004-fsi-bus_all

結果的には大いに結構であるが、本当はみんな、もうずっと前から「夏でもネクタイ・スーツ」なんてやめたくてたまらなかったのに、それを正直に言い出せず、ところが、「地球環境保護のため冷房削減」という大義名分が通用する時代になった途端に、それにすがってものを言っている感がモロバレである。
瑣末なようだが、これも日本人の本質の一面が見える気がする(というのは言いすぎか)

根源論だけしかない本

と、いうわけで『天皇反戦・日本 浅羽通明同時代論集 治国平天下篇』(isbn:4344013425)を読む。
これは浅羽通明氏が20年前からやってる個人誌「流行神」のよりぬき版なわけで、今回は「治国平天下篇」と銘打ってあるが、今後、おたく世間人生論の「修身斉家篇」、思想サブカル論の「格物致知篇」、論戦ねたの「場外乱闘篇」と続く予定らしい。
わたしは「流行神」はナンバー30番台の頃(1990年)から読んでたジジイなんで、本書収録の文章はほとんど、一度は読んだことある内容なのだが、こうしてテーマごとに並べ直したものを通して読むと感慨深い。
なんというか、表層的な思想の左右上下などまるで無視した矛盾を恐れることなき根源論の連発! 初めて浅羽氏の芸風が呉智英師匠譲りと感じた。
印象深い発言を軽く引用してみるとこんな感じ。

国民皆兵で戦う覚悟も、非武装無抵抗で侵略される覚悟も、生活水準を激落させてゆく覚悟もなく、自衛隊という「特殊な人たち」に犠牲を押しつけたまま、「国際社会における名誉ある地位」なんぞを欲しがっている日本人、構図はおんなじだ。(p56)

これは皇室の存続が論議になる中、右も左も誰一人、自分の家の人間が皇室に嫁ぐとかいう当事者性がないからいくらでもものが言える状態を突いての言葉。

日本左翼は民青からテロリストまで、何時だって清く貧しくだった。すなわち、自分だけは手を汚してませんよと証したいだけの、きわめてエゴイスティックな「運動」しかしなかったわけだ。(p104)

と日本左翼のヌルさを突いた直後、2004年のイラク人質事件についてこう語る。

戦争とテロが横行する(らしい)海外へ首を伸ばすのを怖がり、国内という殻へ引きこもって、アメリカの軍事力へゲタを預け、停滞と依存の日本「世間」のなかでまどろむ上は小泉内閣から下は庶民大衆まで、マジョリティは皆「自己責任」などいつのまにかすっかり、放棄してしまっている。経済的にも、橋本”火だるま”内閣が証明したように、構造改革など逆効果でしかないと実はわかってしまっている。
 ところが、いつのまにか皆で捨てたはずのこの「自己責任」を、海外へ無謀にもあるいは勇敢にもしゃしゃり出て行ったマイノリティへ対してはしっかり要求して恥じない……。もはや「自己責任」は九〇年代中頃そうであったような、新しい日本社会を統べる普遍的原理ではなくなったらしい。そうではなくて、一部の逸脱者へのみのいわば懲罰か特権剥奪のごとく課せられるオルタナティヴ・ルールとなったらしいのだ。まあ一種のダブルスタンダードの誕生だろう。(p113)

本書では、戦後天皇を腫れ物に触るがごとく曖昧に扱いつつ都合よく「民主的な人間宣言をした天皇」という解釈を広めた知識人を撃つ一方、「イラクから撤退しないなら俺が死ぬ」という人命尊重を逆手に利用した反戦抗議の手段を論じてみたり、911テロを起こしたイスラム原理主義者をまったくの他人としか思わぬ今の日本人に向けて戦時中日本で本気で構想された米国本土特攻計画を紹介したり、いったいこの人の思想は上下左右どっちを向いてるのか? と、面くらうかも知れぬ。
これは要するに、愛国とか言うなら本気で自分が国家のため死ぬ気で行け、反戦平和と言うなら絶対非暴力で殺される気で行け、自己責任と言うなら自分にも相手にも適用させよ、切羽詰った後進国の人間はそりゃ先進国民をぶっ殺すのが当たり前だよ……etcetcと、気分だけでものを言っている人間が直視してない根源論しか述べていないという、それだけのことなのだ。

責任ある鼓腹撃壌のアナーキズム

ただし、浅羽通明という人物は、単なる奇をてらった毒舌偽悪芸が目的の人間ではない。
そもそも、1990年代初頭、浅羽氏は、新保守的志向による若手の左翼批判論客と見られて注目された。確かに当時、浅羽氏は『ニセ学生マニュアル 死闘篇』『天使の王国』などの著書で反戦エコロジーなどの市民運動左翼を痛烈に批判した。
だが、当時、浅羽氏が口を酸っぱくして繰り返したのは「対案」「実効性」「当事者性」、この三つのない思想運動は無意味な自己満足でしかない、ということである。90年代中頃、小林よしのりのブレーン格として『ゴーマニズム宣言』に登場するようになって以降は「与党精神」という言葉が加わった。
(以上の四点は、今では、プロ市民サヨクだけでなく、口先だけの自称愛国者ネット右翼にも見事欠落している)
浅羽氏は「本気で世の中を動かしたいならどう考え、行動すべきか」という意味で、無難で表層的なことしか言ってないヌルい連中に根源論を突きつけているのである。だから、ただ外野から権力を批判するより、その行使者の側となり責任を持てと説く。

政府は人民を抑圧する権力であるとともに治安維持や福祉をなす主体でもある。資本家は搾取者であると同時に消費物資を供給し雇用を作出する事業主でもある。これら後者の一面において、政府と人民、企業と労働者は一体をなす関係にあることは否定できないのだ。(p148)

さらに今回は、昔から言ってきた「対案」「実効性」と当時に、あえてこれと正反対のことも言っている。

 戦争など止められない。だから何? 自己満足じゃん。それで悪いかい? ここまで開き直ったとき、露わとなる境地……。これは必ずしもバカにできない。
 なぜなら――。どうせ何にもならないじゃん! という、デモをやってる連中へ浴びせられる冷笑が、もはや無効となるからだ。(p140)

実効性を完全に無視したところで宗狂の域にまで達すれば、別の意味で一皮剥ける。なぜなら、人間は(なぜか)実利のみに生きるわけではない変な生き物だからだ(実際、だから大衆多数はヒーローを求める)と説く……この辺、呉智英夫子のいつもの論と近い。
――恐らく、浅羽通明は今でも腹の底ではどこかアナーキストである。
実際、呉智英夫子が『封建主義者かく語りき』で、理想郷のひとつとして論じた「鼓腹撃壌の世」というのは、皇帝だの支配者の有無に関係なく民が満足した状態をさす、これとアナーキズムは矛盾しない。
また、近年の浅羽氏は「現代は新たな中世に向かいつつある」と説くが、「階層があろうが俺は勝手にどっこい生きている」という気概さえあれば、階層社会とアナーキズムも決して矛盾はしないのである。

25年前の大西洋戦争

私事で恐縮だが、昨年『図解「世界の紛争地図」の読み方』(isbn:4569667198)という本の仕事に携わった際、旧ソ連を含む欧州と、南北アメリカの紛争を担当したわけだが、南米の項目で1982年の「フォークランド紛争」を扱うことに、妙な違和感があった。
なんというか、これは他の紛争と微妙に性格が異なるのだ。他の中南米の紛争の多くは、ニカラグア内戦にせよ、コロンビア内戦にせよ、紛争当事国の経済格差と政治思想的な左右対立(大抵、反米政権に対しアメリカが介入)が背景にある。
が、フォークランド紛争はまるで違う。まず、一方の紛争当事国がイギリスというのも異例だ。内陸地帯での戦闘がなかったためか、それほど悲惨で深刻な印象がない。が、「冷戦時代には珍しい西側国同士の戦闘」「当時西側最新の原子力潜水艦、対艦ミサイル、ジェット戦闘機などが贅沢に投入」という、その異例さが却ってポイントだろうと思い、その点を記した。
(余談だが、英国とアルゼンチンの国交断絶状態は1990年まで続き、2001年のブレア前総理のアルゼンチン訪問でようやく一区切りが着いた、と書くと、意外にそんな「完全に昔の事」という気もしないかも知れない)
――ところがである、浅羽氏はいきなり「現代日本フォークランド紛争を再研究せよ」と説くのだ。実際これには論拠がある。『天皇反戦・日本 浅羽通明同時代論集 治国平天下篇』の終盤、こんな文章が出てくる。

七十年まえの日本の軍人らは、日露戦争に再び勝つつもりの大艦巨砲主義を遂行して、戦艦大和の悲劇を残し敗れていった。
 この笑えぬズレは、戦争を準備する軍人の対極にあるはずの反戦を唱える人々にもあるのだはないか。彼らはいつも、このまえ終わった戦争だけを阻止しようと全力で頑張るのだ。
 日本人は、もう六十年以上も、戦争を直接には体験していない。ゆえに、反戦家たちはずっと、大東亜戦争の阻止しか考えて来なかったのではないか。しかし当然ながら、次に来るかもしれぬ日本の戦争は、大東亜戦争とは似ても似つかぬものである可能性のほうが絶対高いのである。(p295-296)

ここで言う「大東亜戦争とは似ても似つかぬ」戦争の一例に挙げられたのがフォークランド紛争だった。当時の英国の立場を今の日本に置き換えてみよ。
戦場は本国から遠く離れた場所で、純粋に経済的な国益のための戦争、戦闘には空海のハイテク兵器ばかりが使われ、ドロ沼の陸戦が最終局面までほとんどない……となれば、戦況が勝ってる間は国民も支持するだろう(実際、当時すでに凋落しかけの英サッチャー政権は、フォークランド紛争で見事に支持率を上げた!)、そうなると「軍国主義的侵略の再開」「いつか来た道」という日本の反戦左翼の化石常套句のパンチ力だって大幅に低減される。
そりゃ戦死者も出るかも知れぬ、だが、敵兵で直に殺し合いというイメージも薄い、警察や海上保安庁の殉職者と同じような感覚で受け止められてしまうのではないか? ……と浅羽氏は説く。
――これは絶妙なリアリティがある。本当に起きたら、自分でもうっかり違和感なく受け止めてしまいそうな気がする。
ま、事態はことごとくなし崩しなのである。
反戦左翼が声高に警戒しているようなわかりやすい軍国主義復活(本当は警戒というより願望している←自分が「弾圧される悲劇の英雄」になれるから)などありえないし、ネット右翼が声高に警戒しているようなわかりやすい北朝鮮侵攻(本当は警戒というより願望している←自分が「侵略される悲劇の愛国者」になれるから)も簡単に起きるとは思いがたい。
いつの間にかそれが空気になってた、というようななし崩しこそ、本当は怖いのだ。
案外、憲法改正は永遠に先送りのまま平然と事実上の戦争としか言えぬ状態になってたりしてな。
ま、何事も、この国では、大義名分と本音が一致しさえすればなし崩し許容だろう。
それこそ銀行が省エネを口実に「夏でもネクタイ」をやめるようにw