電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

再録

かつて雑誌『TONE』第2号(2005年6月刊行)に執筆した原稿。

■「戦争」を描いたヴィジュアル作品レビュー10
(2)中沢啓治はだしのゲン』(1973年)
【啓蒙的反戦漫画? これは変わらぬ日本人へ呪いだ】
 「原爆を憎んで、なぜかそれを落としたアメリカを憎まず」……考えても見ればおかしなものだ、しかし、それが戦後平和主義の教えだった。結果的に、この教えを普及させた一端は多分『はだしのゲン』だろう。
 だが、この漫画を文部省PTA日教組御用達にした奴らなんかどうでもいい。この漫画で、終盤大人になるにつれ思想がはっきりしてくる以前の、子供のゲンにとって、無人格の「ピカ」以外で最大の悪役は誰だったか? それは東條英機でもなければマッカーサーでもない。それを今一度考えることは、無駄ではないかも知れない。
 『はだしのゲン』は長らく、小学校の学級文庫で唯一読める漫画だった。全身焼けただれた被爆者たち、戦中は非国民と罵られ戦後は被爆で抜けた頭髪を馬鹿にされ変わらず繰り返される陰湿なイジメ、食い物を手に入れようと見苦しくもがく少年たち、加えてあのアクの強い絵柄……率直に言って、読んで楽しい漫画じゃなかった。でもみんな読んだ。学校で唯一読める漫画だったから。そのあと休み時間には、手を前に突き出してゆらゆら歩く被爆者の真似などしたものだった――だがこれは、ただ不謹慎なだけでもない、そうやって自分の中でちゃかしてみなければ耐えられない切迫感があったからだ。
 思い出して欲しい、果たして本当に『はだしのゲン』は文部省PTA日教組御用達に相応しい、公序良俗に合致した漫画だったか? ハッキリ言ってゲンは不良だった、しょっちゅう食い物のことで兄弟ゲンカし、見え透いたウソをつき、バカ笑いするお調子者だし、軍艦やピストルも好きだった。意志の強い徹底した反戦主義者だったゲンの親父は理想化され過ぎてたが、原爆投下によって死んですぐに退場した。その父と一緒に死んだゲンの弟進次に代わり、戦後ゲンの弟分になった隆太は、一度は感化院にも入ってる。不幸な人間が善良とは限らない。焼け跡にはやくざ者は出てくる、米兵の愛人になったパンパン女も出てくる、米兵が使うコンドームが出てくる場面もあった、旧友が麻薬に溺れる描写もある……よくこんな漫画が小学校の学級文庫に置かれてたものだ。
 それらはすべて、中沢が焼け跡で見てきた現実だった。そこには筆者の意図さえ超え、単純な左右の思想なんかに回収できない人間のぶつかり合いの形が滲み出ていた。
 結局ゲン(と恐らく子供時代の中沢自身)を、直接に苦しめたのは、海の向こう、超高空の上から爆弾を落としたアメリカより、むしろ戦中も戦後も変わらず、目先の利益のため、権威に尻尾を振る連中だった。ゲンは原爆投下直後、日頃彼の父を非国民と罵っていた町内会長親子を助けたが、町内会長親子はゲンの父たちを見殺しにして逃げた。思い出したろうか? 戦争が負けるまでは「天皇陛下万歳! 大日本帝国万歳!」を唱え、戦後はへろりと「マッカーサー万歳! 民主主義万歳!」を唱えた町内会長……きっとコイツだよ、最大の悪党は。
 バブル時代は消費に浮かれ、バブル崩壊後はスローライフ構造改革だと唱え、企業不正を放置しておいてそれが露呈すれば糾弾し、大東亜戦争を再肯定するのは良いが、それで真摯に祖父母の姿から自分を省みるわけでもなく、結局日本に生きる自分を肯定することにすりかえることしかできないという、平成時代の人間も、戦中は敗走に向かう戦争の現実など見ず目先の大日本帝国を肯定する事で自分を肯定し、戦後も目先の民主主義を肯定する事で自分を肯定した町内会長の態度を笑えない。
 ゲンの怒りは「お前、昨日の自分の言ってた事を忘れたのか?」という変わらぬ日本人自身への怒りとして、戦後60年を経てなお通用する執念を漂わせている。

こうしてまた、実感にもとづいた「経験」でものを語れる人間が消えてゆく。あとに残るのは、右や左や上や下のアタマの中だけで考えた「理念」ばかり。