電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

もし「暴行殺人OK」が「みんな」の空気だったら

約1年半前日本人には「みんなに迷惑をかけない」以上の倫理観がないという問題を取り上げたら、意味不明の異常な注目を浴びたが、その一方で「『みんなに迷惑をかけない』で結構じゃないか、何が悪いの?」という疑問を持たれたようだった。
今ごろになって、その有効な返答が思い浮かんだよ。
先日知人がmixiで、1989年に起きた「女子高生コンクリ詰め殺人事件」の気持ち悪さについて言及していた。
この事件は、4人の少年(当時)グループが、さらってきた女子高生を密室に閉じ込めて集団で自分たちの奴隷として飼って暴行を繰り返して死なせた末にコンクリに詰めて死体を遺棄した、というものだ。
以前も書いたがこの事件の犯人の元少年は、出獄後も懲りずに再犯で逮捕されたという。
なんでこの犯人は反省することができないのか? そこに「みんなに迷惑をかけない」が関係する。
女子高生コンクリ詰め殺人事件の気持ち悪さは、この犯罪を行なった少年(当時)たちに、恐らく明確で主体的な「悪の意識」がなかったくさいところにある。
要するに、彼らの間には「女の子をさらって殺す」という明確な意志もなく、ただ何となく、集団のノリ勢いで女の子を捕まえてしまってから、仲間内で「この娘は独立した人格尊厳のある人間なんかじゃなくて、俺たちの共有奴隷だから何をしても良いよね」「うん、そうだよね」「右に同じく」「左に同じく」という「場の空気」の共通了解だけがあったのではないか? で、そのまま、暴行がエスカレートした末に死なせてしまって、あわくって死体処理に走った、というオチではないか。
つまり、そのとき彼らの間では「コイツは独立した人格尊厳のある人間なんかじゃなくて、俺たちの共有奴隷だから何をしても良いよね」が少年グループ四人の「みんな」の共通了解ルールだった、というわけだ。
こんな時「いや、彼女は独立した人格尊厳のある人間だ、解放しなければ!」と言えば、それこそ、その時その場における「みんな」の空気を乱すケシカラン行為となる。これはイロニーやブラックユーモアを気取って言っているのではない。

実際問題、戦時中の日本は「大日本帝国万歳天皇陛下万歳」が「みんな」の空気なんだからそれを乱すな、というのが正義、それが敗戦後は一転「民主主義万歳マッカーサー万歳」が「みんな」の空気なんだからそれを乱すな、というのが正義になっただけなのだから。
なるほど、そのときの「みんな」の場の空気に従っただけの人間では、悪の自覚もないから反省もできないだろう。
余談だが、連合赤軍永田洋子が一生反省できないのも同様の構造だろう。彼女は、じつは主体的意志で同志を殺したくて殺したというより、連合赤軍内での「みんな」が持っていた「骨の隋まで革命兵士になれないなら死んでよし」という場の空気をバカ忠実すぎるまでにバカ忠実に実行したに過ぎないのではないか。
これが酒鬼薔薇聖斗宅間守であれば、「みんな」の空気など顧みず単独で「小さい子どもを殺す」ということは既存社会の正義に反すると重々自覚してあえてわざとそれをやった人間だから、(俺は一切共感などしないが)これを逆説的に「悪のヒーロー」と呼ぶこともできるが、女子高生コンクリ詰め殺人事件の少年(当時)たちは、場の空気に逆らえなかった、ただの気の弱い情けない連中でしかない。