電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「大きな物語」は必要悪か?

論座』の3月号では東浩紀天皇制について語っているが、どうも東先生は、とにかく男性原理的な主体を滅却する方向の思考が無条件に正しい、とにかく国家とか宗教とかいった、共同体を支える、いわゆる「大きな物語」は解体の方向に進むのが正しい、と思いたがっているように読める。
だったら、この際はっきり言うが、わたしは「大きな物語」復活論者の側だ。
(補足1:ここでいう「大きな物語」とは天皇制だけを指さない。たとえば「高度経済成長」も、「人民戦線」も、「大きな物語」として機能しえるし、それが、ばらばらの個々人に理想や目標を与えて連帯させ主体性を獲得して躍動する魅力的な装置として機能するのなら、肯定したい)
大きな物語」解体を肯定する志向の人は、そういう人々と束ねる権威的な国家権力や宗教的伝統や思想的目標などがなくなって、個々人が自分の欲求のまま自由に振る舞えば世の中は自然によくなる、と思いたがっている、つまり、民意性善説にもとづく自由放任を正しいと思っているようだが、大変残念なことだけれど、わたしはどうしてもそれが正しいと思えないのだ。
民意性善説にもとづく自由放任を唱えて失敗したのが90年代の宮台真司だった。宮台は、欲求に自由で軽々と人とコミュニケートするコギャルやクラブキッズの生き方を礼賛し、これを放置すればひとりでに自己決定自己責任が普及すると説いたが、そうはならなかった。宮台は裏切られたわけではない、宮台が勝手にコギャルやクラブキッズに自分の理想や願望を当てはめすぎただけだ。それこそ性善説的に。
わたしは、たとえば、天皇制がなくなったら、今の口さがない嫌韓反中の差別主義者はもっとひどくなると思う。従来の日本の右翼は、あくまで建前としてであれ、忠君愛国といっしょに日本的な義理人情を説いていた。しかし、欧米の右翼であるネオナチやスキンヘッズには口さがない人種差別こそあれ、義理人情は感じられない。それはなぜか? 日本の右翼は、建前としてであれ、血の通った生きた人間の天皇を奉じているからではないか? 人の良さそうな顔のお父さんの前では悪いことできない、という心理だ。
(補足2:ただし自分は、たとえば天皇制を奉じればみな善良になるなどと言いたいわけでもない。典型的天皇バカである『拝啓天皇陛下様』の山田二等兵は大陸では蛮行もやったであろうし、ドストエフスキーキリスト教人間愛という「大きな物語」を説いたが、そのキリスト教徒も十字軍じゃ随分殺した。この手のことは、あらゆる「大きな物語」につきまとう)
時代の最先端をゆくカッコいい現代思想家であれば、こういう考え方を、前時代的な反動主義と思い切り軽蔑してくれるかも知れないが、いや、古いとか新しいとかじゃないよ、いつの時代も変わらないトラディッショナルだよ、と言いたいw
古いとか新しいとかじゃないよ、いつの時代も変わらないトラディッショナルというものはあると思う。宇野氏はまず90年代的セカイ系に対する00年代的決断主義、という論点で天元突破グレンラガンを高く評価したが、わたしもこの作品は気に入ったけど、いや、これは90年代も00年代も関係なく、いつの時代も通用しえる少年冒険成長物の王道だろ、と思う。
そりゃ確かに、国家権力や伝統宗教文化や思想的目標のような「大きな物語」には弊害も付きまとう。そういうものが独裁や弾圧を生むんだ、とか。しかしだ、逆に言えば、それがあるから、それに対する個人主義もまた、その覚悟が明確になり、輝くのではないか?
戦後を通しての権威の解体と平坦化が進んだ現在は、かつての金権で越え太った大物保守政治家だの、公害を垂れ流す財閥のようなわかりやすい巨悪がなくなった代わりに、自由を主張する若者のほうも、なんだか気合の入らないダラダラとした印象しかない。
もし「大きな物語」のほうが嫌な意味で支配的になったら、今度は革命家に鞍替えするまでのことだw
大きな物語」に殉じた山田二等兵と、「大きな物語」に立ち向かったジャック白井は、どちらもバカだが、それゆえに輝かしい、とわたしは思っている。