電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

わたしはなぜ裁判員制度に反対しないのか

かねてより実施が予告されていた裁判員制度だが、ついに11月末には、候補者名簿登録者へのお知らせが発送され、各地で「俺はこんなもんいらねえ」だの「どうしたら辞退できますか」だの「私には人を裁くなどというご大層なことはできません」といった反響が起きているらしい。
この制度には多くの非難の声があり、わたしが同世代のジャーナリストではもっとも尊敬する青沼陽一郎氏も裁判員制度には批判的なのだが、わたしは、この制度に多くの問題点が存在することを認めたうえで、この制度には反対しない立場でいる。
まず、最初に「一般市民の司法参加」ということが主張されたときには(一部では飽きるほど聞かされた話のはずだが)、戦後の民主的な(はずの)司法制度が導入されてからなお、免田事件や島田事件のような冤罪事件が何度も起き、はたまた狭山事件のような限りなく冤罪の可能性が高いまま決着のついてない事件が存在し、そーいうものは大抵、取り調べ時の自白強要とずさんな証拠チェックが原因で、司法のプロに任せると、かえって密室で捜査と審理が進んで正当なツッコミが入らないから、では一般市民に開かれた司法を、という話だったと聞いた。
こう聞いた限りでは結構な話ではないか。だというのに、あとになって、そういう冤罪を平気で生む体質の司法を糾弾しているはずの人権派の多くがむしろ裁判員制度に反対する立場を取ってたりするのだからふしぎだ。

裁判員制度は徴兵と同じか?

裁判員制度に反対する一般人の意見の大多数は、まず「仕事が忙しい。そんなもんやってられるか」である。確かに、有給休暇の余裕のない中小企業や個人経営の商店や農家などは確かにその通りだ。これで辞退する人間が出るのはやむを得ないだろう(この結果、参加するのはニートと主婦と定年退職後のおっさんばかりになる可能性も……)
では、そういう即物的理由ではなく思想的論拠があって裁判員制度に反対する人間はどういう考えなのかと思い、熱烈な裁判員制度反対論者という人権派弁護士の著作を読んでみたら、「裁判員制度は徴兵制と同じだ!! 軍国主義復活の第一歩だ!!」と強弁している。
へそ曲がりなわたしはこう思った。「その通り、徴兵制と同じだ、だから必要じゃねえのか」と。
たとえばの話、もし明日、北朝鮮の軍隊が上陸してきたらどうするんですか? 憲法九条の精神に殉教して本ッ気で一切無抵抗で撃たれ死ぬという覚悟があるなら尊敬はしますが、そんな潔い信念なんかない場合は?
ハァ、自衛隊在日米軍が守ってくれると? ご自分の身は安全圏に置いて、自分の手で自分と自分の大事な人間の生命や財産を守ることはせず、そういう危険な仕事は、汗臭い高卒ドキュン自衛官アメリカでも飯が食えずにしょーがなく軍隊に入った貧乏な黒人やヒスパニックの米兵にでもやらせろと? ……こーいう差別的発想ではないのか。
裁判員制度は、徴兵制度とは異なるが、刑事事件の被告と向き合うという、あんまり人がやりたくないよーなことをあえてやらせるシステムである。が、少々皮肉な意味で、わたしはそこにこそ意義があると思っている。

無責任な観客民主主義と当事者意識

Yahoo!ニュースでは記事にコメントがつけられるようになっているのだが、匿名であるためか、事件によってはかなり無責任なコメントを目にすることがある。何かのしょーもない犯罪事件の記事にはすぐ簡単に「こんな奴死刑にしろ」とかいうコメントがつく。
いや実際、わたしも感情レベルではそう思う事件も多々ある。しかしだ、容疑者が逮捕されたとかいう第一報の段階では、本当にその容疑者が犯人なのかはわからないのだし、その容疑者にも家族もあれば逮捕されるまでの人生も友人もある、ひょっとしたら情状酌量すべき深い事情がある場合だってあるのだ。
が、Yahoo!ニュースの匿名コメントでは、いくらでも短絡的に暴言が吐ける。なぜか? 容疑者は自分と無関係の世界に住む他人で、責任のない他人事の立場と思ってるからだ。
わたしはこういう無責任な「観客民主主義」の蔓延に不満を覚える。だが、裁判員制度は、間違いなく、このような無責任な「観客民主主義」を揺らがすだろう。
簡単に「こんな奴死刑にしろ」と言う人間も、じゃあ死刑にする権限を与えられたとして、その容疑者の顔を間近で見て、容疑者本人が喋る声を聞き、生い立ちや普段の生活を説明されたうえで、匿名コメント欄でのときと同様に軽々しく死刑を宣告してやれるかね?
匿名でなら「こんな奴死刑にしろ」と軽々しく発言するのに裁判員になることは忌避する者は、口先だけなら隣国を罵倒できるが自分が一兵士として人を殺す気まずい罪悪感を本気で考えていないヘタレ愛国者と同じだ。
ミもフタもない話、今の日本国民に、仕事が忙しいという即物的な理由以外で裁判員になることを忌避する心性があるとすれば、それは「ケガレ意識」ではないかと感じる。つまり、刑事事件の被告人とは「ケガレ」であり、それに関わりたくない意識ということだ。
みな、刑事事件の被告人は自分とは別の世界の住人だと思いたがっている。
しかし、刑事事件の被告人だって、事件を起こすまでは案外ふつうの人だったのに、どこかで人生の調子が狂ってしまいました、とかいうケースもあれば、経歴や人格形成の過程を聞かされたら意外にも往々にして自分とも共通するような要素があったり、泣いて減刑を嘆願する母親や妻子がいることもあるのだ。裁判員制度は、それを強引に教えるだろう。

裁判員制度は「日本人の本音」を暴く

ところで、法曹関係者の中には「裁判員制度は徴兵制と同じだからケシカラン」式の人権派とは反対に、「これまでプロの司法関係者に一任されていた裁判を一般人に任せられるか?」という論点で、裁判員制度に反対の人もいるようである。
こういう人は、もっとハッキリ正直に言うべきである、「愚民どもには任せられない」と。
だが、現行の司法制度は、裁判官にせよ検察官にせよ弁護士にせよ、司法のプロばかりに任せた結果、却って、往々にしてディベートのテクニック合戦に陥っている場合も少なくない(精神鑑定の解釈なんて、ときには凄まじく不毛だ)。
そういう裁判報道を見ると、不謹慎ながら「国民の皆さん、ほんとに司法をプロの人だけの手に独占させて良いのか?」と考える。
まあ、裁判員呼出状が届けば何があっても問答無用で満洲ガダルカナル島に行かされ……もとい裁判員にさせられるのかといえば、適性をはかる面接というものがあるので、よほど「私は裁判員制度自体に徹底的に反対です!!」とか「私は絶対的に死刑反対論者なので、現行の死刑制度が廃止されない限り裁判員にはなりません!!」とか強弁すれば、裁判所のほうから外してくれるであろう。
しかしである、そうすると、現状の問題点も多い裁判員制度に反対しない、死刑制度にも反対しない人間ばかりで裁判員裁判が行なわれることになる。つまり、どちらかといえば本心では死刑制度反対、裁判員制度にも反対の人間こそなるべく参加して意見を述べないとマズいのである。いや皮肉やイロニーではなく、マジメな話。
刑事事件の厳罰化に反対する人権派には、裁判員制度の導入で厳罰化が進むと危惧する声があるが、もしそうなったら、人権派は大衆性善説という幻想を捨て、それが「人民の声」いや「大衆のホンネ」であるという事実に直面しなければならない。
しかし一方、逆に、実際に裁判員に選ばれたとして、目の前にいる人間を死刑にする判断は忌避してしまうのが人間の心理というものだろうから死刑判決は減るだろうという声もある。
結果がどっちに転ぶにせよ、裁判員制度は、良くも悪くも現代の日本の民衆のホンネを明らかにするだろう。わたしはそれに皮肉な小気味よさを感じているのだ。