電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

なぜオタクとおばさんは相性が悪いのか

しょうもない話であるが、前から不思議に思っていたことなのでこのさいに書くけれど、どうも世には、「『オタク』の天敵は『体育会系』(あるいは『ヤンキー不良』)である」という俗説があるらしい。
だが、なぜか世の非モテ論議では無視されているけれど「体育会系の非モテ」とか「不良の非モテ」というものも大いに存在する。
体育会系や不良でも外見がイケメンではない奴はいくらでもいる。『巨人の星』でいうところの左門豊作とか『愛と誠』でいうところの蔵王権太みたいな、地味で汗臭い努力家タイプだ。世の非モテがそういう不器用な男に自分らの同胞として親近感を抱かないのは、つくづく不思議でならない。
逆にいえば、以前も述べたがZガンダム』でいうところのシロッコのように、文系にも口の上手いスケコマシ鬼畜はいる。
――以上は単なる前フリなのだが、で、わたしは昔から「オタクの天敵は体育会系? いや違うだろ、オタクの天敵は『おばさん』だろ?」と思っている。
世の男子オタクは中高生当時の自分の姿を思い出してみたまえ、学校内のイジメもさることながら、家庭内で自分の母親(ときとして自分の部屋を勝手に掃除したり、宮崎勤や加藤智大がタイホされれば、ウチの息子もそうなのかという目を向ける)こそ、身近な場でもっともオタクを理解せず異物視する存在ではなかったかねw
まあ、一人暮らしでも始めれば対母親プレッシャーというものは薄らぐだろうが、親元住まいのニート自宅警備員などにとっては、一番身近でやっかいな相手だろう。
いや、冗談抜きに、バカにして言っているのではない。わたしは現在一人暮らしで働いているが、それでも、そういうプレッシャーがまったく他人ごとに思えない。
わたしは定職に就いていないので平日昼間から住宅街や商店街を歩いてたりする(まっとうな成人男性の多数は、平日昼間は会社勤めなどに出ているものである)。
通常、平日昼間の住宅街や商店街とは専業主婦おばさんの空間である。わたしのような、いい年した男が歩いていると明らかな異物で目立つのだ。
常々、偶然に近所で幼児誘拐事件など起きようものなら、真っ先に疑われるだろうな、と思っている(←オイオイ、考えすぎだよ。そういうのを被害者妄想と言う)。
しかし実際、専業主婦おばさんというものは、自分の生活圏における「異物」というものにやたらうるさいものだったりする。わたしのような人間には天敵のような存在である。
専業主婦一般がそうであるというのは偏見になるかも知れないが、田舎のおばさんはというものは、たいてい半径30メートルの隣近所や親類しか世間がなく、ほとんどいつもその世間内の人間の噂話、それも「誰それは挨拶がなってない」「誰それは恩知らずだ」といった感情的な陰口みたいなことしか言わない。
それはどうしてなのだろう? と昔から不思議でならなかったが、先日、この一見くだらない問題を無駄にえんえんと考えた結果、これも専業主婦おばさんというものは生産労働の現場から切り離されていることと関係あるのではないか? という仮説にたどり着いた。

労働は好悪を後回しにさせる

働いている成人男性の多くにとっては、仕事の職場の人間関係というのが目の前でもっとも重要な人間関係になる。
職業上の利害を共有する関係では、感情的好悪で「あいつ嫌い」と思ったとしても、それだけでは済まない。
職場の同僚であればイヤな奴とでも一緒に働かねばならない、よほど不快な相手でも、それが仕事の効率を絶対的に下げるとかでもない限り、なかなか首を切って追い出すわけにもゆかない。それが同僚どころか商売の取引先だったりすればなおのこと、イヤな奴でも調子は合わせなければならない。
こうして、働いている成人男性の人間関係では「仕事の効率・必要性」が「感情的好悪」より優先され、「感情的好悪」は職場を離れた酒場の愚痴程度の後回しなものになる。
しかし、専業主婦おばさんにとって、周囲の人間関係は、こうした利害と必要で繋がる人間関係ではない。ゆえに、感情的好悪ばかりが真っ先にあがるのではないか?
それこそ『昭和三十年代主義』(asin:434401491X)に書かれていた以下の説みたいな話だ。

人が人を「必要」とする場合、そこに何らかの「人情」がなくては、協働体は円滑に動かず、必要もまた本当には満たされないでしょう。しかしです、逆に「必要」もないのに、ただ純粋に間の信頼だのが宙に浮いたごとくあるというのは、何ともみだらでだらしくなく、気持悪くはないでしょうか。「必要」という筋金が入ることで、しっかり引き締められた「感情」こそは、貧乏から解放されて久しい平成の世の我々が失ってしまった「昭和三十年代の人情」の正体ではないでしょうか。(p94)

しっかし、世の専業主婦おばさんもせっかく生産労働の現場から切り離されているのなら、周囲の他人の噂話ばかりでなく、本を読んだり映画を見たりしてその感想の話でもすればよいのに、と思うのだが、これはしょせん万年青年の発想、書生の発想なのだろう。
青年期の人間(とくに男子)が本を読んだり映画を見たりするのは、娯楽という目的もあるが、それが世の中を知るとか何かの役に立つかも知れないとか、つまり、広義の意味での教養になると思っているからだったりする。
しかし、すでにそういう成長期を過ぎ、生産労働の現場から切り離され、亭主が失業しない限り生活の安定している専業主婦おばさんは、そんなもん必要としないわな。
おぞましいことに、結婚して子供もできて、そこに安息した専業主婦おばさんは、よほど活動的な人物でない限り、多くの場合「誰それの妻である」「誰それのお母さんである」という、血縁関係それ自体による位置が社会的ステータスのすべてとして扱われてしまう。
無論「誰それの妻であること」「誰それのお母さんであること」に積極的に張り合いと喜びを見いだし、家事をしたり家族を気づかう日常に楽しみとやりがいを感じている立派な専業主婦おばさんだっているだろうとは思うが。

そうして人は相互不理解に陥る

――と、以上の文章を書いてから数日後、自分で読み直したら、これは考えようによっては、随分とひどい女性差別なのではないか? という気が自分でもしたきた。
しかし、実際問題、現在のわたしは専業主婦おばさんというものに町中ですれ違う以上に接点がなく、専業主婦おばさんの気持ちというものが心底わからないのである。
ぜひとも当事者からのツッコミを期待したいところであるが、やはり、このブログを読むような人間に平均的専業主婦おばさんなどいるわけがないか?
恐らく、いくら考えてみても、わたしの考える「おばさん」像は、当事者不在の脳内おばさん像なのだろう。たぶん、体育会系あるいはヤンキー不良を頭ごなしに嫌うオタクが考える一方的な体育会系あるいはヤンキー不良像と同じように。
(※追記:ところで、俺は「リアル日常世間において」オタクと相性悪いのはおばさんではないか、という話をしていたつもりなのだが、このエントリの反響を読むと、なぜか「ネット世間において」オタクと相性悪いのは誰かという話に論点が変わっている意見が多い。まあ多分、俺の方が着眼がずれてるのだろうが)