電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

オタクは政治的に保守なのか? 再論

まず大前提として、オタクでも"一個人として"リベラルや反体制はそりゃいるさ。
ふしぎと「オタクは政治的に保守なのか?」という話になると、日本が世界にほこるジャパニメーションの代表的監督・宮崎駿が個人としては左翼に見える問題はすっ飛ばされる(今のオタクはもうジブリアニメは萌えないからどーでもいいのか)。
文学者だって三島由紀夫のような右翼もいれば大江健三郎のような反体制もいる。
漫画やアニメやゲーム、あるいは文学や音楽や映画や演劇でも、個々の作品内容ではなく文化ジャンル全体で、政治的に保守またはリベラルの文化ジャンルなんてない。
一部で、昭和の時代からマンガやアニメは今ある世界を肯定してそれを乱す者を悪としてきたのだからオタクが保守になるのは必然、という解釈を見た。
しかし一方、ショッカーもガミラス帝国もジオン公国ファシズム風で「独裁的な権力者の大人に自由を愛する少年の主人公が立ち向かう」図式の作品もやたら多いではないか。
従来アニメや特撮の敵がたいてい「××帝国」だったのは、ベタな戦後民主義的価値観の現状を肯定し、その反対物のファシズム専制君主制を敵に投影してきた感が濃厚だ。
――この手の話はしだすときりがなくなるから、個々のオタク、個々の作品と政治思想とは別に考えないと困る。

サブカルチャーの立場は時代によって変わる

それでは、オタク文化という「文化ジャンル自体」が置かれてる立場はどうか?
オタクと保守・リベラルについてなら、わたしは丸一年近く前に論じたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20111223
要約すると「80年代にはリア充体育会系=体制主流/オタク≒少数弱者だったけど、90年代後半『ジャパニメーションは日本が誇る文化』神話ができて、自分と日本を一体視する価値観の反転が起きた」ということではないかと。*1
ただし、これには、オタク自体に関係ない、時代状況の変化もあるだろう。
現実に1980年代当時は、まだ冷戦時代で資本主義と社会主義のどっちが正しいか明確な結論も出てなかった。また、米ソ両陣営の単位で世界を考える思考が強く、日本一国を肯定するかしないかという問題は意識にのぼりにくかった。*2
しかし、それが冷戦体制崩壊後「社会主義共産主義はいっさい間違ってました」となれば、単純に正義が勝利する物語に触れてきたオタクが左翼=悪と信じるのも無理はない。

少数派が保守に反転するとき

また一方、1980年まで、プロ野球や大人向けの実写映画や古くからの文学、演劇などが大衆的に権威やメジャー感のある文化とすれば、本来は子供向けのジャンルだった漫画やアニメやゲームなどのオタク文化はマイノリティの側だったと思う。
だが、単純に文化的なマイノリティが政治思想的にも反体制になるとは限らない。
たとえばヒップホップはアメリカの白人エスタブリッシュメントや既成の権威への反逆を歌うが、一方では黒人やヒスパニックの間での身内の血縁の絆などの保守的な価値観を賛美する。*3
この手の逆説は言い出すとキリがない。かつてX JAPANYOSHIKI今上天皇に奉祝曲を捧げたことを反体制たるロック文化への裏切りだと決めつけた人がいるが、ビートルズだって英国王室の勲章を受けた、ヨーロッパにはネオナチ系のパンクロッカーだっている。
逆に言えば、今でこそ権威ある伝統文化だと勘違いされてる歌舞伎も、成立初期は幕府による風紀取り締まりの対象となる大衆娯楽だった。
もともと文化的にマイナーな立場にあるものが、それゆえ内部の結束や地位の向上を求めて保守的な価値観や権威に結びつく逆説は少なくないのだ。
こう書くと、ものすごく嫌がる人がたくさんいるだろうが、今のオタクが日本と自分を一体視するのは、かつて1980年代当時の不良暴走族が、日の丸はちまきや特攻服を愛好したメンタリティと"図式"自体はよく似ているのかも知れない、という気がする。
待て! 石を投げるな!! つまり、かつての不良暴走族も、高学歴リア充の仲間にはなれず、さりとて日教組も彼らを救えなかった。なぜって? 左翼はお勉強の対象が小難しいマルクス毛沢東というだけで、これも権威的なガリ勉出世主義で、腹の底では無知無学な奴を軽蔑してたりする。結局、自分を特攻隊員のような孤独な憂国の戦士に見立てるヒロイズムしか社会的アウトローの不良を救わなかった、ということだ。*4
逆にいえば、左翼リベラル派は、かつて不良暴走族を味方にできなかったのと同じ轍を今後も踏み続けるのだろう……。

*1:かつて1970年代にアニメブームに火をつけた「宇宙戦艦ヤマト」の存在が、1980〜90年代の一時期なかったことにされたのは、主人公側の軍隊的結束や保守的な感性が、1980〜90年代のオタク青年層の空気とは相性が悪かった側面があるのではないか、という気がする。

*2:高校野球で地元校を応援するように、国際間の問題で自国を支持すること自体は、なにもオタクに限らず大衆的にふつうの感情ではないか。

*3:中国のチベット人も、スペインのバスク人も、トルコやイランのクルド人も、イスラエルパレスチナ人も「少数民族の独立派」は、支配民族に対しては反体制であっても、その民族の内部では伝統と守ろうとする保守主義者だ。

*4:1980年代当時、『週刊プレイボーイ』のような大衆向け青年誌の記事作りや、村上龍長渕剛などワルっぽさを売りにした表現者は、世の軟派なリア充を軽蔑して、反米愛国とか右翼的マッチョイズムを説くのが多かったものです ←じじいの昔話。