電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日本人なら一度は観とけ

1945年のゴジラ 昭和29年の国民共通の記憶

初代の『ゴジラ』は、この歳になってまた大画面で観る機会があるとは思わなかった(20年あまり前、早稲田のATCミニシアターで観賞)。この作品についてとにかく結論だけ一言で述べると「日本人なら一度は観とけ」である。
改めて久々に観ると、終戦からまだ9年の1954年(昭和29年)という画面に漂う「戦争の影」の濃厚さに頭がクラクラする。序盤、ゴジラが原因で次々と起きる海難事故について、劇中の新聞記事に「原因は浮流機雷か?」といったフレーズが出てくる。そう、戦時中に敷設された機雷がまだ残ってるようなご時世だったのだ。
大戸島にゴジラが出現する場面では、島民が山狩りのような格好で日本刀を装備してる。この島民たちもつい10年前には硫黄島サイパン島で日本刀を振るって米兵と戦ってたのか。そういや同じ1954年に公開された『七人の侍』には農民が竹槍訓練する場面があった。
ゴジラ迎撃に向かう自衛隊も、演技者の大部分が10年前には本当に前戦で戦ってたか、少なくとも軍事教練を受けてたと考えると見え方が大きく変わる。
昭和29年の観客にとって、ゴジラによる帝都蹂躙は誰がどう見ても完全に空襲の再現だったことは間違いない。なんでゴジラは物理的に街を壊すだけでなく火炎を吐くのか? 炎に包まれる東京の銀座一帯と必死に火炎から逃げ惑う人々の姿は、焼夷弾による爆撃の光景そのままである。ゴジラが迫る中、もはや諦めて逃げようともせず「おとうちゃんの所に行くのよ」と言う母子の有名なシーンは、現実の空襲でこんな死に方した人間も確実にいたんだろうなあと思わずにいられない。
破壊された東京を去ろうとするゴジラを追撃する自衛隊F-86セイバーに声援を送る地上の被災者は、恐らくB29の迎撃に出た戦闘機を応援する人々のイメージであろう。

2011年のゴジラ 平成23年の国民共通の記憶

そして、平成26年の観客にとって、ゴジラの出現は誰がどう見ても東日本大震災の再現である。ゴジラの出現という「災害」を逃れた避難所の群衆、避難民がトラックに乗るのを丁寧に手伝う自衛隊員、これを見て311を思い出さない人間はおるまい。
大戸島にゴジラが出現したあと、島民たちはガイガーカウンターを持った調査団員から「井戸の水を飲むな」と言われて困惑する。上下水道が不備な当時としては地味に怖い描写だろう。
ゴジラの上陸以前、議員たちは「軽々しく公表すべきではない。国民や国際世論が何と言うか」「いや公表しなければならない」と怒鳴り合う。うげぇ、どう見ても福島第一原発事故のあとの風景である。結局、東京電力の公式発表だけでは、311のあと建屋の水素爆発やらでどれだけの放射性物質が飛び散ったかは不明なことだらけだ。ゴジラの再出現後、避難所でガイガーカウンターを当てられる子供の姿は、見ていてフィクションとは思えぬ居心地の悪さになる。
かつて1989年1月の昭和天皇崩御直後、娯楽番組が「自粛」されたTVはほとんど昭和の歴史記録映像を流していたが、その最大の要点は「昭和20年8月15日」に集約されていた。
今後、何かの節目節目に日本国民が幾度となくくり返し見ることになる現代史の国民共通体験の映像といえば、原爆の焼け跡と終戦の「1945年8月」と並んで、今ひとつは「2011年3月」になることだろう(東京オリンピック大阪万博などをあげる人もいるだろうが)。とんでもないことに、映画『ゴジラ』(初代)にはその両方が入ってるのだ。

円谷英二は戦争協力者ですが何か

ところで先頃「朝日新聞が初代の『ゴジラ』を反戦映画と持ちあげるので産経がそれに突っ込みを入れる」という記事があったらしい。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140526/ent14052603110001-n2.htm
くだらん話である。またいつもの、離婚夫婦の子供の取り合い似た右派と左派でのサブカルチャーとか若者文化の取り合いか。
率直に言って、初代の『ゴジラ』に直接的な反戦イデオロギーなどない。ゴジラ自体は自然災害のような災厄であって、政府権力なり軍事指導者なりが糾弾されるわけでもない。
だがしかし、先にしつこく述べたように、劇中から戦災の脅威は痛いほど迫ってくる。昭和29年の日本国民にとって「本気で怖い物」を全力で描いたら、その10年前の戦災の再現そのものになったという話だ。
その後も東宝特撮怪獣映画には長らく戦争の影がつきまとう。『ゴジラの逆襲』(1955年)の終盤は戦時中の航空隊の生き残りがゴジラを止めるため次々と特攻する。『空の大怪獣ラドン』(1956年)では、ラストシーンで阿蘇山火口の炎に焼かれて死ぬラドンの姿の方に、空襲で焼け死んだ人々のイメージが重ねられているようにしか見えない。
ゴジラ』の特撮監督を務めた円谷英二が、戦時中に海軍省の宣伝映画である『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)の撮影に関わったため、戦争協力者として戦後は一時期公職追放になったのは有名な話だ。その点は円谷もいろいろと鬱屈を抱えていたはずである。
今日では「大東亜戦争は正しい義戦だった」「戦後占領軍の押しつけ平和主義は一切誤っていた」という自虐史観批判の観点から、戦後の円谷が受けた処遇をナンセンスだと簡単に断じる向きもあるが、事態はそんなイデオロギー的正しさだけでも割り切れない。
わたしは『ハワイ・マレー沖海戦』は、初代ゴジラと並んで「日本人なら一度は観て欲しい映画」と思っている。この作品の観るべき点は非常に多いのだが(まず冒頭、海軍とも戦艦とも飛行機ともまったく関係ない山奥の村から始まり、なんの変哲もない田舎の農民出身の兵士たちが壮大な帝国海軍を支えていたことがよくわかる。そして予科練の生徒の訓練風景の実録映像に漂う団結心や使命感がまた圧倒的である)、いちばん重要なシーンは、息子を軍隊に送り出した母親が「あの子はもううちの子じゃありませんから」と、淋しげにつぶやく場面だ。戦時中の、海軍省おすみつきの映画で、このような場面がしっかり入っていた点は重要だ。べつに戦前の日本人とて、全員ただ大東亜戦争イデオロギーに熱狂していたわけではなく、ごく普通の親の感情として、子供を軍隊に行って自分から離れてゆくのは気まずいという思いを、海軍省の広報さえも認めていたのだ。
円谷はそれこそ、映画『風立ちぬ』での堀越二郎みたいな人物で(現物の堀越二郎はもうちょっと現実主義者)、良い特撮映画が作れるなら軍に協力だって何だってしますという、芸術至上主義のマッドサイエンティストみたいな気質があったと思われる。
だが、円谷が関わった映画を観た多数の青少年が、その影響を受けて予科練に入り、そこから特攻隊員となったり、帰らぬ人間となり、その母親たちは戦後も亡くした息子を思って泣いていれば、別に左翼の反戦主義者でなくとも、そら鬱屈もするだろう(たとえ大東亜戦争は正しい義戦で戦後占領軍の押しつけ平和主義は一切誤っていても)。
ゴジラ』の劇中、使い方次第では多数の人間を救えるが恐ろしい兵器にもなり得る発明を手にした芹沢博士の姿は、万人を楽しませることもできるが戦争の道具にもできる映画に関わった円谷英二自身だったかも知れない。
1954年当時、反戦イデオロギーとか左翼思想以前の体感的な国民感情として、あの空襲やら原爆投下やらの災厄、出征で家族を失ったのは悲惨で嫌だったという感情があったことを見落としてはいけない。
そして、大東亜戦争は義戦であったかとか、戦後占領軍の押しつけ平和主義がどうのとかいったイデオロギー論争以前に、そういう体感的感情というものが、普通の庶民の多数にとっては結構重要なのである。裏を返せば、現実の社会主義が失敗したのも、いかにきれいごとの国家的理想を掲げても、満足に国民を食わせることもできず、普通の庶民の体感的感情でそっぽを向かれたからではないか。