電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

1『ムーミンの生みの親 トーベ・ヤンソン』

トゥーラ・カルヤライネン:著(isbn:4309206581
わたしが小学生のころ愛読していたムーミンシリーズの原作は、意外に暗い面が少なくなかった。『ムーミン谷の彗星』などでは大災厄がムーミン谷を襲い、『ムーミンパパの思い出』では孤児だったムーミンパパの収容所での辛い生活が回想され、最後の作品『ムーミン谷の十一月』ではムーミン一家のいないさびしげなムーミン谷で、スナフキンたちが戸惑いながら春を待つ姿が描かれる。
こうした暗さの背景には、原作者ヤンソンの故郷である北欧フィンランドの過酷な自然や、1914年生まれのヤンソンが経験してきた二度の世界大戦、冷戦、貧困などが指摘されることもあるが、現実は想像以上にきびしかった。
芸術家の娘として生まれたヤンソンだが、その青春時代は落ち着かない。フィンランドは北欧の内奥に位置し、ゲルマン語ともスラブ語とも異なる独自の言語を持つ陸の孤島のような国で、ヤンソンはたびたびパリに芸術家修業に行くが、最愛の母のいるフィンランドを離れられない。日本の田舎の芸術青年みたいだ。
日本人からはあたかも自然の豊かな北欧のユートピアみたいに見えるムーミン谷だが、ヤンソンは南太平洋のトンガや北アフリカのモロッコなど温暖な土地への憧れが強く、初期設定のムーミン谷にはヤシの木が生えていたという。
1918年にロシアから独立したフィンランドは、その後もソ連に領土を脅かされ、第二次世界大戦ではドイツと同盟、大戦末期にはそれが決裂したものの、戦後は「旧枢軸国」としてソ連からの賠償を背負わされる。ヤンソンの父はドイツびいきの反ユダヤ主義者、初期の彼氏はユダヤ系、その後の彼氏は兵隊に取られ、いつ死ぬかわからない心境でしょっちゅうヤンソンの許と戦地を往復する。
ムーミンシリーズでくり返し描かれる「冬になるとムーミン谷を去るスナフキンと、それを淋しげに見送るムーミン」は、当時のヤンソンと彼氏の姿だったのだ(pixivに多い「スナムー」カップリング好きの腐女子にはなんとおいしい話!)
北欧の田舎らしいフィンランドの保守的な男社会に振り回されてきたヤンソンは、後半生では同性愛者となって女性の芸術家同士の百合ライフを送るのだが、「ヨーロッパ辺境のフィンランドの中でも少数派のスウェーデン系の女性で同性愛者」って、どんだけマイノリティの中のマイノリティ人生だよ!
とりあえず本書を読んだ後、ムーミンシリーズ原作で最後の二作品『ムーミンパパ海へ行く』と『ムーミン谷の十一月』を改めて読み返すとじんわり来た。ムーミンは争わず金も自動車も欲しがらないと力説したヤンソンが、決してムーミン谷をただの夢想的なユートピアにも描かなかったことには大人の責任感が読み取れる。