電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

弱者への嫉妬について

「英雄ってのはさぁ…英雄になろうとした瞬間に失格なのよ。お前、いきなりアウトってわけ。」
北岡秀一 『仮面ライダー龍騎
https://www.youtube.com/watch?v=vqV1ZBM-d6E

前々から思っていたことであるが、わたしは「キモくて金のないおっさん=かわいそう論」というヤツがどうも嫌いである。
47歳独身彼女なし数年前まで年収100万円台で、平日昼間に自転車で小学校の横を通っただけで警官に呼び止められこともある当方は、まさに「キモくて金のないおっさん」を絵に描いて額縁に入れて美術館に飾ったような存在なのだが、同輩がみずからかわいそうな弱者という顔をするのを見かけるとイヤな気分になる。
じゃあ、「キモくて金のないおばちゃん」や、「キモくて金のない男子小学生」や、「キモくて金のない若い女性」や、「金はあるがキモくて人望のないおっさん」や、「イケメンだが金がなくて結婚を諦めた若い男」はかわいそうじゃねえのかよ?
近年になって、「キモくて金のないおっさん=かわいそう論」が出てきた背景にあるのは、従来の左翼リベラル派の価値基準では「女性や子供や身体障害者や日本人以外のアジア人は『弱者』として扱ってもらえるのに、日本人成人男性はどんなにみじめな立場でも『弱者』として扱ってもらえない」という"弱者への嫉妬"意識だろう。
それは理屈としてわかる。それで「俺も『弱者』様になりたい」「俺も『弱者』として認めろ」ということであろう。だが、当方としては、先に引いた仮面ライダーゾルダ北岡弁護士の台詞に倣って、「弱者ってのはさぁ…弱者になろうとした瞬間に失格なのよ」と考えている。
ああ、そういや昔、椎名林檎「♪同情を欲したときに すべてを失うだろう」(『歌舞伎町の女王』)って歌ってたな。
キモくて金のないおっさん問題といえば、かつて話題になったこんなツイートがあった。

シエ? @s_sh
20代の知人女性が「運転中にパンクして困っていたところ、通りがかった男性に助けてもらった。歳はたぶん40代で、小太りで少しハゲていて、見るからに独身という感じだった。すごく気持ち悪かった」と話していて、人生の悲しみのすべてがここに詰まっているなと思った。
23:34 - 2013年5月29日
https://twitter.com/s_sh/status/339993187294801920

わたしが同じ立場にあれば高確率で、いや、ほぼ確実にこのおっさんと同じく「すごく気持ち悪かった」と評されると思う。が、だからといって怒る気はしない。先の北岡弁護士の考え方に沿えば、若い女性に感謝されることを期待する時点で不純だからだ。
それでも、もし自分が上記の場面に出くわしてパンクの修理を手伝える状況にあれば、手伝ってやるかなあと思う。自分の持っている「パンクを修理する技術」がもったいないからだ。
それで相手が感謝の念を示すより「気持ち悪かった」と思っても、こちらから修理を申し出た以上は文句を言える立場ではなかろう。人の感情には優先順位というものがある、先方が善意100%で高級ワインを勧めても、こっちは一滴も酒が飲めないからただの大迷惑という場合だってあるのだ。相手は「パンクが直ること」より「気持ち悪い中年男とは一切関わり合いたくない」の方がよほど大事な人だったのなら、その時はその時だ。
人に善意を示すときは見返りを期待するなという話である。

近代以前の男尊女卑は幸福だったか?

言うまでなく、「キモくて金のないおっさん」は、別に21世紀になって突如出現したわけではなく、いつの時代どこの国にも存在していたはずである。
それでも、男尊女卑的な社会秩序が機能していた時代には、大人の男(おっさん)はただ「大人の男」というだけで、ある程度は女子供にデカい顔ができた。それはなぜか? ただ単に世の中全体、圧倒的に筋肉労働中心だったからではないのか。
要するに、今のスマホとコンビニと電車とエアコンその他のある便利な文明社会と、無条件の男尊女卑環境はトレードオフなのだ。大人の男が大人の男というだけで尊敬されたいなら、筋力で獣を狩ったり筋力で畑を耕す前近代社会に戻るしかあるまい。
世の非モテ論者の中には時おり、自分が結婚できないのは戦後の男女平等のせいだ、戦前のような男尊女卑社会なら自分でも結婚できてたと述べる者がいる。
だが、その戦前、日本人の圧倒的大多数は農民だった。当時の世の男性に要求されていたのは、田畑を耕したり、炭鉱で石炭を掘ったり、軍隊で重たい装備品を担いで何千キロも行軍する能力であり、それらに耐え得ない者では到底モテ得なかった。
また一方、戦前ないし前近代社会であれば、無条件に男尊女卑であるからどんな男も結婚できていたかといえば、常にあぶれる男だっていた。
輿那覇潤の『中国化する日本』(isbn:4163746900)によれば、江戸時代当時、農村では農地を継ぐ長男以外の次男三男坊以下は、農村から都市に捨てられる存在だった。江戸の人口は男2人に対して女1人だったという。
江戸や大坂のような大都市では、近隣の農家の次男三男坊以下が流入して長屋に住みつき、日本橋で人足でもしながら吉原通いでもして、結婚もせず30代40代でのたれ死に――なんて与太郎がゴロゴロいたはずである。自分もまたそんな大量にいた与太郎の後継者の一人と思えば、特段に自分だけが不幸とはまったく思わない。

「劣者のノーブレスオブリジュ」というプライド

ただし、いい歳をして妻子もない独身男であることを「申し訳ない」という意識はある。
何しろ自分も成人するまでは親に育ててもらった、その養育費を一切払わない代わりに、自分も成長後は親となって子供を育てる……という形で人類はずっと続いてきた。未婚で子なしのまま死ねば、親世代に対して借りだけが残る。これは申し訳ない。
だから、結婚して子供のいる人々は皆、自分の代わりに義務を果たしてくれていると考えている。それゆえ、自分の収めた税金やら保険料やら年金やらが少子化対策や保育園助成に使われるなら、まあ納得せざるを得ないだろう、と。
男の「キモくて金のないおっさん」問題と表裏をなすように、女性の側には「未婚女性は産休を得られる女性のために損をしている」という意識があるらしい。

いきいきママ」で業務が崩壊した話
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20171023112949

産休を支えている未婚の女性労働者も、可能性のうえでは、自分が出産したときには産休制度の享受者になり得るのだから「お互い様」ではないか。わたしが女性だったら、自分は子育ての責務を免除されてる代わりに産休代理の労働をしていると考えるけどな。徴兵義務免除と引き換えの労働奉仕みたいに。
本来ならば、自分には子供がいないなら、代わりに自分が成人するまでの養育費を親に返さないと格好がつかないという意識が頭の片隅にあるので(一向に実践はしないが)、子供がいる人間のための労働奉仕を要求されるのなら、まあ納得はできる。
先に引いた「パンクを助けて気持ち悪かったと評された中年」の話も、この産休制度を支える裏方も、あえて損な役を引き受けることを、一種のノーブレスオブリジュと考えることはできないだろうか? 愚痴れば醜く思われるが、「自分は人のため嫌な仕事をあえてやっている」という考え方をすれば、最低限、内面の優越感は維持できる。
先に触れたような前近代〜戦前の男尊女卑を支えていたのは、「いざとなれば、成人男性は女子供を守れる」というありがたみと、そのような意気込みである。
どうも現在の保守・右派は女性や身体障害者などの社会的弱者に手きびしい場合が多いが、かつては保守的な道徳観のなかにも、騎士道精神や義侠心といった、弱者のために戦うヒロイズムがあった。「キモくて金のないおっさん」を論議にしたがる人々には、そういう男としての美意識やストイシズムが感じられないから、当方としては同情心が湧かないのだ。
こういうことを述べると「男の騎士道精神や義侠心なんて自己満足なパターナリズムじゃないか」というツッコミが入ること必至だろう。だが、当方としては自己満足なパターナリズムで上等、せめてそれぐらい示せなければ成人男性が成人男性というだけで尊敬してもらえる最低条件もクリアできないではないか、と思うのだが。