電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

国民を動員する「大きな物語」の魅力

しばらく前からSNSなどネット世論では「東京五輪ボランティアの待遇がブラックすぎる」という話題が絶えず、さらに五輪のためのサマータイム導入まで持ち上がり、これまたネット上では猛反発が起きている。それは自分も基本的にはまあ同感だ。
が、8月上旬に行われたNHK世論調査ではなぜか、サマータイムに賛成する者が51%に対し、明確な反対はわずか12%にとどまった。
NHK選挙WEB)
http://www.nhk.or.jp/senkyo/shijiritsu/
案外と五輪ボランティアの方も、いざ募集が始まったらネット世論の絶不評ぶりとは裏腹に参加者が集まるのかも知れないなあ……? という気がしている。

ブラック環境だからこそ参加したがる奴は一定数いる

最初に断っておくが、わたしはこの手の動員は大キライだし、オリンピック自体にも興味が乏しい。
五輪ボランティア動員を批判する人々は、交通費は自腹、炎天下で長時間働かされても無給、正式な雇用契約ではないから熱中症や過労で倒れても労災はなし、にも関わらず学生はボランティアに参加しないと単位がもらえない、就職面接で睨まれる……などと問題点を指摘する。
だがしかし、五輪ボランティアには「魅力」もあるのではないか? むしろ、それを踏まえたうえで批判する意見が出てきて然るべきではないのか。
わたしも含めてブログやSNSで日々持論を説いているような亜インテリではなく、地方人口の圧倒的大多数を占めるマイルドヤンキー的庶民は、運動会やら地元の祭やら「皆が一体感を抱く大きなイベント」が大好きである、そこに悪意はまったくない。
前回の1964年から半世紀以上ぶりとなる自国でのオリンピック開催、これは一生に直面できるかわからない大イベントだ、ボランティアに参加すれば、きびしい訓練を積んだ選手でなくとも「当事者」の気分が味わえる。となれば、喜んで飛び込む者が大量に出てきてもおかしくはあるまい。
ここ2、30年というもの、4年に一度オリンピックがある度、マスコミでは「感動をありがとう」などと言ってきた。しかし、福本伸行最強伝説黒沢』の冒頭では、TVでサッカーワールドカップでの日本代表の活躍を見ていた黒沢が、あれはTVの向こうにいる選手たちの感動であって自分が主人公の感動ではない、と気づいて落胆の涙を流す。
ところが、五輪ボランティアになれば「自分の感動」が味わえるのだ。喜んで飛び込む奴は一定数いてもおかしくない。
そんな連中にとっては、熱中症で倒れそうな過酷な環境であればあるほど、それを乗り越えた暁の充実感は甘美なものだろう。「五輪ボランティアがきっかけで男女が出逢って結婚」みたいな話が美談として報道されたり、10年後20年後まで「俺は2020年五輪ボランティア参加者だぜ」を語り草にする者も現れるだろう。
――言っておくが、わたしは五輪ボランティアに待ち構える前述のような問題点を擁護する気はいっさい無い。
が、人間は往々にして、ブラック雇用はいやだという実利より大きなイベントの一員になれるという物語を取ってしまう側面があることを指摘しておきたいのだ。大東亜戦争なんてのはまさにそんなノリ(場の空気)で国民に支持された。
常識的に考えれば、1941年当時、すでに4年も続いていた日華事変が一向に決着しないまま、さらに米英と開戦なんざ無謀の極みなのに「白人帝国主義との歴史的な聖戦」という物語に、当時のマスコミも津々浦々の亜インテリ層もみずから乗ってしまった。
ファシズムの参加者にとって、ファシズムは超絶めちゃくちゃに楽しいのである。

『現代ビジネス』
私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56393

20年前の夏にわたしが一日だけ連れて行かれたネットワークビジネス団体「リバティコープ」の集会もこんな感じだったよ。会場内の自分らこそ新時代のエリートで、自分らはまったく新しい大事業を興そうとして一致団結してるという熱烈な一体感と高揚感、彼らは最高に楽しそうだった……そのノリについて行けなかった俺にはひたすらウザかったけど。
インテリがこうした大衆動員をバカにするのはたやすいが、動員された当事者には動員の「魅力」「楽しさ」があることは事実なのだ。

サマータイムという夏祭り/国民規模のカーニバル

ボランティアは建前上、志願者のみで成り立つ。だが、サマータイムとなれば国民全員が自分の意志に関係なく巻き込まれて強制参加だ。
しかし、まさにそれゆえにこそ、ボランティアに志願せず受動的に過ごしてるだけでも「巨大なイベントの当事者になった非日常的な気分」が味わえる。もしサマータイムが恒常化した暁には、「国民的恒例行事の第1回に参加した」という歴史的な体験の当事者になれる、これに喜びを感じる人間が一定数いてもおかしくはない。
というか、現代の日本人はもうすでに「歴史的な国民共通体験」の味を一度覚えてしまっている。こう書けば猛反発を受けるだろうが、2011年の東日本大震災は、多数の犠牲者を出して大きな爪痕を残した一方、それゆえにこそ国民が一体感を抱く「大きな物語」として機能した。
原因こそ大災害という不幸なものであるが、多くの人々がボランティアに参加したり義援金を送ったり、国民の間に強い一体感が生まれた側面は確実にあった。311後の計画停電の期間中、秋葉原のオタク向けショップでは節電協力を示すため「ヤシマ作戦実施中」という看板を掲げていたものだ。
だが本来、大きな苦難ゆえに成り立つ一体感など、無くて済むならなくて良い。
国民全体を動員する「大きな物語」は国民の総スカンを食らう危険とも表裏一体だ。しかし、逆にもし国民世論でサマータイム反対が多勢となった場合、それに応じて首相の鶴の一声でサマータイムを撤回すれば、政権支持率アップも期待できる。そうなればまったくマッチポンプとしか言いようないが、これは単なる現状維持ではなく、良くも悪くも国民全体を巻き込む「新しい提案」を持ち出した与党の勝ちである。
現時点でサマータイム反対派の多くは、IT機器のタイムスケジュール切り替えに関わる膨大な手間やバグの危険性、急な睡眠時間の切り替えによる健康障害、早く出勤したのに早く帰れない可能性など「実利」の面での問題点を指摘している、これはとりあえず正しい。だが、前回6月1日のエントリと共通する問題点ながら、反対派の弱さは「ボランティア参加やサマータイムよりも楽しく魅力的な物語」を提示できていないことではないか?
多数の人々を動員させる「物語」をナメてはいけない。かつて大東亜戦争の末期、日本ではいくら食料や燃料が欠乏して兵士や銃後の労働者の健康が悪化しても、それら実利面での損失は、白人帝国主義に対する聖戦完遂・悠久の大義がどうのこうのという「物語」を論破して撤回できず、昭和天皇の聖断が下るまで戦争を辞めることができなかった。
――ま、俺個人は元より勤め人ではないから毎日決まった時間に起きることはなく、でも例年夏季は冬季より少し早起きなんで、どうでもいいっすけど(ギャフン)