電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

それでは皆様よいお年を

もはや惰性で年1回の更新だが、逆に言えばかろうじて生存報告の機会になってるともいえる。今のネットの速度では、話題の出来事や作品に触れても、じっくり考えてるうちに世間の興味は次のネタに移り、文章にまとめてる余裕がない。自分のようなスロースタートで長文書きの年寄りには、今のSNSは向かないのだ。

■2021年最後の挨拶とか年間ベストとか
例によって本年触れたもろもろの年間ベスト。
1.TVドラマ『青天を衝け』
2.評論『星新一の思想』
3.ルポ『明治大正史世相篇』
4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
5.映画『狼をさがして』
6.映画『TOVE』
7.漫画『高丘親王航海記』
8.映画『ゴジラVSコング』
9.漫画『国境のエミーリャ』
10.国立博物館 三輪山信仰展&イスラーム王朝とムスリムの世界
列外.村上清の弁明

■1.TVドラマ『青天を衝け』脚本:大森美香https://www.nhk.or.jp/seiten/index.html
前々から「武将ではなく、文化人が主人公の大河ドラマがあって良いんじゃないか」と思っていたなか、渋沢栄一を題材にしたのは絶妙。
本作が画期的なのは労働の物語であることだ。商品を作って売る、新しい制度を築くことの苦労と喜びがテーマ。序盤、血洗島の農村で商品作物の藍玉をつくるため、男も女も子供も交じって働いている姿こそ、日本人の原風景なのである(専業主婦? 学校? 何それ)。後半で維新後、「初めて郵便が配達された」というだけの話を、派手な戦乱より感動的エピソードに描いて見せたのが秀逸。
そして本作は、数少ない「民衆視点の幕末」の物語でもある。前半で痛烈だったのが、尾高惇忠の母が、攘夷運動に深入りして捕縛された息子らを思って半狂乱になる場面。いかに男の子が高遠な理想に熱中してるつもりでも、母親にとっては単なる息子を奪うテロ思想でしかない(この図式、その後も不平士族反乱から自由民権、226やら515、全共闘オウム真理教、Qアノンと延々くり返される)。
山田風太郎史観のように維新志士側より幕臣側に重きを置いてるので、途中まで西郷隆盛が悪役というのも新鮮。なお、劇中ではあんまり詳しく触れてないけど、岩倉具視五百円札)は、公家の中では下級の身分で、だからこそフットワークが軽かった。とはいえ、薩長志士を支持した公家らの目標は平安時代のような律令制の復活だったから(大蔵省とか兵部省とかいう組織名もその産物)、岩倉は途中から、近代的な議会制を導入しようとする伊藤博文大隈重信と敵対する立場になる。
終盤は渋沢がすっかり偉い人になってしまうので、人間ドラマ的面白さは落ちるが、そこでボンクラ息子篤二の苦悩を持ってきた構成も憎い。それこそ、戦後の高度成長期に青年期を送った世代が渋沢栄一のポジションとすれば、その子供である就職氷河期世代の多くは、王様になれないまま歳だけくってしまった元王子の篤二みたいなものではないか。

■2.評論『星新一の思想』浅羽通明https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017383/
浅羽通明氏が星新一作品を読む会(https://twitter.com/hoshiyomizemi)を始めたのは2016年のことだが、その数年前から、話をうかがう機会があると、かつて1960~70年代に濫読した古典SFやミステリの話題を挙げることが増えた印象があった。いつぞやは「哲学も私小説もSFだよ」とも語ってたと思う。SF的想像力とは世界観を仮構する思考実験なのだ。この「SF的想像力の効用は何か?」というのが、典型的SF少年だった氏の歴年のテーマだったのではないか。
それでは、数ある日本の古典SF作家のなかでも、なぜ星新一を論じるのか? 10代前半の読書一年生に読まれてきた星は、戦後の隠れた「国民作家」であり、知的好奇心の入口としての普遍性を持っていた。ネット社会を先取りした『声の網』を筆頭に、数々の作品に見られる先見性や予言めいた内容も、「人間は未来でもこういうことをやるだろう(考えるだろう)」といった普遍的志向の産物だ。
そして「予見・冷笑・賢慮のひと」という副題が示すように、本書は冷笑系の価値相対主義が本来持っていた可能性を問うている。1980年代の価値相対主義と、文明批評的な初期SFの相性は良かった。ただ、ここで重要なのは、自分自身を相対化する視点をも持っているかだ。優越感のための価値相対主義と冷笑ではないのである。かつてソクラテスは「自分が何を知らんかを知ってる」と自分自身を相対化したではないか。
星新一は、会社経営の失敗という無力感が作家としての出発点になっている。星の私小説とも解釈できる『城のなかの人』の主人公である豊臣秀頼は、自分が環境に生かされているだけの人だと重々自覚していた。
星新一作品を読んでいれば、「人間は正義や理想より利益で行動する」「人間は自分の命が脅かされない限り独裁体制にだって順応する」という一種のニヒリズムが身につくかも知れない。だが、逆に間違っても「××党の唱える正義はくだらないがうちの陣営だけは正しい」とはならんだろう。冷笑系、価値相対主義とは本来そういうもののはずだ。

■3.ルポ『明治大正史世相篇』柳田國男https://www.amazon.co.jp/dp/4061590820
新しい仕事企画のネタになるかと考えて20年以上ぶりに再読。近代とは地方の個性を殺す画一化であり、人々の意識の変化は、首から下の生活環境の変化と連動している。
たとえば、かつて、家族と食卓を共にせず自分一人のため火を起こして食事するのは、「大袈裟に言うならば火の神信仰への反逆」とまで見なされた。輸送手段と保存技術が発達するまで、畿内の人々は生魚を食うことを野蛮と見なした(第二章 食物の個人自由)。
明治期に短期間で人力車が広まった一因は、それまで馬車がなかったから。だから人力車夫を牛馬の代わりと見なす意識も広まらなかったが、欧米人は車夫を家畜の仕事と考えて差別したという(第六章 新交通と文化輸送者)。
意外にも柳田は、「日本は離婚の多い国として知られている」と記している(第八章 恋愛技術の消長)。考えてみれば、西洋(とくにカトリック文化圏)では婚姻は教会で神への宣誓がセットなのだから、20世紀中ごろまで日本よりよほど離婚は困難だったのだ。
また、柳田に言わせると農業は「新しい職業」だった(第十章 生産と商業)。つまり、昔の農村は自給自足が基本で、農耕専業ということはなく、味噌や漬物、草鞋や蓑など何でも自作していたし、農閑期には出稼ぎに行くことも多かった。
はたまた、柳田は「女が働かないで養われているという思想は、ごく良い生活から来たのであって、普通は昔から女性が働くのは当たり前」とも書いている(第十一章 労力の配賦)。そりゃそうだ、農村じゃお母さんもお婆さんも機を織り、糸を紡ぎ、わらじを編み、商家では仕入れや売買の帳面つけをしていた。専業主婦なんて伝統でも何でもない。
柳田によると、明治期以前の日本人は整然とした行列を作らなかったらしい。「隊伍を組むようになったのは、軍隊生活の影響と思われる。学校がはやくその整理法を採用し、今では大変な人の数が、こうして街上を動くようになった。」と書いている(第十三章 伴を慕う心)。
わたしたちの考える「日本人はこういうもの」というイメージには、案外と近代150年ほどの歴史しかないものがいかに多いことか。政治や経済の大きな事件だけ語って歴史をわかった気になっていると、こういう側面を見落とす。

■4.映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(https://www.evangelion.co.jp/final.html
庵野秀明岡本喜八の戦争映画の強い影響を受けてるという話は昔から有名で、『トップをねらえ』の終盤は露骨に『激動の昭和史 沖縄決戦』にそっくり、『シン・ゴジラ』は庵野版の『日本のいちばん長い日』だった。いずれも共通するのは、個としての人間を最小限にしか描かなず、大局的な運命に動かされる群像を映すマクロな視点だ。
しかし一方、岡本喜八の戦争映画といえば、『肉弾』『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』のような、等身大の個人、戦時下においても紡がれる日常を描いた傑作もある。庵野にそっちの影響はあんの? とずっと思っていたが、その答えが本作だったのはないか。
巨大メカと戦闘と理不尽な大人しかいない空間で生きてきたシンジやレイやアスカが、農村で田植えしたりごろごろするリハビリ過程は、ベタといえばベタだ。とはいえ、メカと戦闘の描写は天才ながら人間をどう描くか試行錯誤してきた不器用男が、40年のアニメ職人歴で獲得した等身大の実感が現れてるのかなあと思うと感慨深い。
そして本領のメカと戦闘描写は、アニメ特撮好きな男の子のハートが溢れまくってる。終盤でヴンダーVS同型艦の戦闘は、30年前の『ふしぎの海のナディア』製作時、「ノーチラス号対ブラックノーチラスをやりたかった」と語っていたのを実現させたんだろうな。してみると、主役VS同型機(しかも敵が複数)の元祖って、仮面ライダーのショッカーライダーじゃね。と、『シン・仮面ライダー』に期待を寄せる。
***
ところで、本年には一部で、旧テレビシリーズの同作中の大人はひどいパワハラ上司じゃないかという意見が盛り上がった(https://togetter.com/li/1652999)。
これを言うのは後出しジャンケンに対する後出しジャンケンだが、今になって1995年当時の人物描写を大真面目に批判するのは卑怯ではないか?
何しろ1995年放送ならば、企画、シリーズ構成、シナリオ打ち合わせ等々はその1~2年前のはず。みんな忘れてるが、1990年代(平成1桁年代)は、まだあの程度に世の中全般が体育会系価値観だった。劇中の大人の理不尽に従うシンジはおかしいと言うのは、戦時中の人間に「なんで徴兵忌避しなかったの?」とか、江戸時代の人間に「なんで農民やめないの?」と言うようなものだ。
ブラック企業」とか「パワハラ」という用語や概念、理不尽な上司には従わなくて良い、転職したり逃げても良い、という価値観がある程度以上まで世の中に共有されるようになったのはネットが普及し、終身雇用も崩れた小泉改革期以降だ。
2ちゃんねるSNSのような市井の人々同士が直接本音を言い合うメディアが定着してようやく、「うちの職場しか知らんからそれが普通だと思ってたけど、こんな待遇やっぱりおかしいと言っていいんだ」という意識が広まったのである。
エヴァ製作中の1994年当時、インターネットを使ってたのはごく一部の英語がわかる理工系高学歴のみで、世の中の仕事内容は圧倒的に、オタク的インドアワークではなく、夏でもネクタイスーツで大声を張り上げ、手で触れる商品を売るような体育会系価値観の職場のほうが多数だった。劇中のネルフ程度の理不尽パワハラは普通だった。
無論、当時の体育会系的価値観を擁護・礼讃する気はいっさいない。とはいえ、そんな当時なりに、「大人になるには嫌なことも逃げずにやらなきゃいけないのかなあ」と、必死に考えていた庵野秀明らスタッフの切実さを、後出しジャンケンで一刀両断というのは、いささか欺瞞的というものではないか。

■5.映画『狼をさがして』監督:キム・ミレ(http://eaajaf.com/
1970年代の爆弾テロリスト東アジア反日武装戦線の、その後を追ったドキュメンタリー。一部の愛国者様のお気持ちで上映中断になったというが、えんえん田舎の風景やら、未遂に終わったテロ事件の現場(天皇お召し列車が通った鉄橋)やらと、老人の思い出話が描かれるだけの映画っすよ。それを韓国人の監督が撮った点に意義がある。
劇中に出てくる北海道の森はなんの変哲もないただの森だ。だが、テロリストたちは、それの風景に「かつてはアイヌの土地だったのに、我々が奪った」という想像力を抱いた。「自分たち日本人はみな日本人というだけで侵略者だ」という強烈な日本人自身による日本否定の思想が、なぜ1970年代にしか現れなかったのか?
劇中では細かく触れてないが、かつて日本が支配・侵攻した近隣アジア諸国と日本の戦後の関係はずっとウヤムヤだった。圧倒的にアジア諸国の民衆は日本より貧しかった状況下、韓国は朴正煕、フィリピンはマルコス、インドネシアスハルトといった反共主義開発独裁で、過去の事は無視して政府トップの間では経済協力が優先された。こうしたなか、国家政府ではなくアジア各国に経済進出する民間企業を形を変えた侵略の手先と見なして敵視した点に、反日武装戦線の特殊性がある。
――ところが、近隣アジア諸国の人々やアイヌの復讐を掲げた爆弾テロは、たまたま大企業ビルの近くにいた一般人を巻き込んだだたの虐殺になってしまう。犯人の一人、大道寺将司は、被害者を救済するつもりで加害者になったことと対峙し続けた。2017年に出所した浴田由紀子の姿はほとんど「復員兵」だった。
反日武装戦線の事件から半世紀近くが過ぎて近隣アジア諸国は経済的に豊かになり、韓国は臆することなく平然と徴用工訴訟をするようになったお陰で、わたしたちはもはや罪悪感を覚えることがなくなった。だが、現在進行中の技能実習生問題は? 今、テロの標的にされるべき者は誰か?
ところで、反日武装戦線メンバーの一人で、逃亡したまま今も消息不明のままの桐島聡は、平野耕太の漫画『ドリフターズ』に「漂流者」として出てきても違和感ない。

■6.映画『TOVE』監督:ザイダ・バルリート(https://klockworx-v.com/tove/
ご存じムーミン童話の原作者トーベ・ヤンソンの伝記(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20141230/p2)そのまんまのお話。平板だが手堅い実録。
ヤンソンは正統な芸術家を目指しつつも、本来なら副業の童話作家として名を残したことに少なからず忸怩たる思い抱いていたらしい(富野由悠季が、正統なる映画作家ではなくロボットアニメ監督という仕事に劣等感を抱いていたのと少し似ている)。
自由を愛するけど放置されると淋しがるが、さりとて彼氏や彼女を本気で拘束する気概はない――と書くと、何やら面倒くさい人だが、芸術家は面倒くさくてなんぼである(それゆえ作品に深みがあるのなら)。
ときおりムーミンスナフキンのBLを描いてる腐女子がいるが(ムーミン受が定番だ)、史実はBLではなく百合だった。現代ならムーミンスナフキンともに女の子という設定でも商業的に成立するだろうが、当時はそれが許されない時代だったことを考えると重い。
「自由と孤独」はムーミン童話のテーマのひとつだが、自分の作品の理解者だった彼女が一箇所に落ち着かずフラフラしてばかりいるので悶々とする姿は、ムーミン谷からスナフキンがいなくなると淋しがるムーミンそのままだ。劇中でトーベ自身がムーミンは優しいのではなく臆病だと語ったのは自分のことなのか。
あと、昔の能動的な女性は酒も煙草もバンバンやるものだったのをはっきり描いてくれてるのが爽快。何かとジャズに合わせて踊るのが可愛い(これも史実通り)。
映画を観たあと講談社文庫のムーミン童話を立て続けに読み返したが、『ムーミン谷の冬』は初読だった。パパもママもスナフキンもいない中で厳冬期を過ごすムーミンは、初めて「死」を認識するが、その後の春は「再生」の象徴として描かれる。フィンランドでは一年の半分近くが雪に閉ざされ、冬至の時期は一日中暗く、人口密度も低いからご近所は頼れず、映画の中で家具を壊して薪を作っていたヤンソンのように何でも自力で作業する……こういうのが北欧人の心の原風景なんやなあと痛感。

■7.漫画『高丘親王航海記』近藤ようこhttps://www.kadokawa.co.jp/product/322005000424/
すでに癌で死期を迎えていた澁澤の死生観を反映した怪作。原作の初読時、頭に浮かんだのは諸星大次郎か水木しげるの絵柄だった。とはいえ、それではあまりに色気がない。近藤ようこが漫画版を描いていると知って、「この人がいたか!」と膝を打つ。シンプルな絵柄ながら、鳥の翼の描写、黒ベタの使い方などはじつに秀逸。

■8.映画『ゴジラVSコング』監督:アダム・ウィンガードhttps://godzilla-movie.jp/
観に行ったのが夏休み前の平日の昼間なので劇場はガラ空き。
フッ素による水道水汚染だのイルミナティの世界支配だの、Qアノンのごとき陰謀説がぽろぽろ出てくるのに苦笑する。一方でキングコングが船で輸送される途中で暴れ出したり、高圧電流を浴びてパワーアップしたり、微妙に昭和版キングコング対ゴジラを踏襲。メカゴジラはなんだか実写版トランスフォーマーに出てきそう。
さえない企業告発youtuberとただのナードが土壇場で活躍と、ツッコミ所は多数だが、怪獣映画は男の子のドリームなんだからこれで良いんだよ。

■9.漫画『国境のエミーリャ』池田邦彦(https://gekkansunday.net/work/408/
冷戦時代の東西に分断された日本を舞台にしたサスペンスアクション。何やら、過去に同じ小学館から刊行されてた浦沢直樹の『パイナップルARMY』を読み返してるような懐かしさ。この手の「架空冷戦物」は、ディックの『高い城の男』その他の架空第二次世界物と同じく、今後一つのジャンルになるのか。
共産主義支配下の日本では野球が禁じられてるという設定は、同じく冷戦下で東西に分断された日本を描いた矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』(https://www.amazon.co.jp/dp/4041616573)のオマージュとしか思えない。

■10.東京国立博物館三輪山信仰のみほとけ」展(https://tsumugu.yomiuri.co.jp/shorinji2020/
三輪山大神神社は日本最古の神社ともいわれる。が、実際に展示されてるのは仏道で、自然の山をそのまま御神体とする山岳信仰に「形」を与えたのが仏教だったのだなと痛感。数メートルもある巨大なお地蔵というめずらしい物が見られた。
同時期に東洋館のほうでやってた「イスラーム王朝とムスリムの世界」(https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2109)は、アラビア文字書道が結構おもしろい。やたら金銀や宝石で装飾した剣や銃が多数展示されてたが、どう見ても実戦用ではなくステイタスとしての武具という印象。裏返して言えば、近代以前の上流階級には、戦争もまた名誉を得たり力を誇示する儀式だったことを感じさせる。

■列外.村上清の弁明(1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして)
https://www.ohtabooks.com/press/2021/09/16200000.html
本年、東京オリンピック開会式に付随して広がった小山田圭吾の過去のいじめ問題は結局、実際には傍観者ポジションに近く、わざとワルぶって語った誇張や他の生徒による所業が話のメインだったとかいう(https://bunshun.jp/articles/-/48622
この件には初期から、ベタなキャンセルカルチャーとネットリンチにいやな感じを覚えつつ、さりとて小山田個人への同情の念も起きなかった。何しろ、渋谷系の王子様だった小山田なんて天上の別世界の他人様である。小山田だって東大卒の小沢健二と比較すれば平民だよと言われても、こちとら皇帝と貴族と平民の区別さえわからない底辺の奴隷身分っすから。
(だからこそ、好きでもない小山田のことを、そう明言したうえで真摯に検証したこの人の根気には頭が下がる:https://note.com/toyamakoichi/n/n01bb51913d8e
一部には小山田といじめられていた子は仲の良い友人だったという擁護意見もあった、それも事実の一側面だろう。ただ、現実のいじめはジャイアンのび太のように力関係が明確とは限らず、むしろ表面上は仲良しグループに見えつつ、その中で実質的に”いじられ役”になっていたり、いじられ役もプライドのためその事実を認めていないという場合だってある。だからこそ、教師や外部の人間にはいじめの事実がわかりにくい。
わたしが気になったのは小山田当人より、1995年当時に『Quick Japan』誌上でインタビューを行った村上清という編集者だ。何でも、この人自身が悲惨ないじめ体験者なのだそうだが、記事中では平然と「いじめはエンターテイメント」と書いてる。要するに、正面から自分の私怨を述べたり「いじめは悪い」と主張するのはダサいしウケないと過剰に思い込み、あえて、いじめる側の立場に感情移入する趣旨だったらしい。まるで「反戦平和を訴えるつもりで、『愛国戦隊大日本』を作りました」みたいな話だ。
その答えがこの弁明で、だいたいは予想通りの印象。曰く――
「近年、いじめる側の勝手な論理としてよく伝えられる「いじめてるんじゃなくて、いじってる」を想起させる描写を無配慮に掲載していたことも、恥ずべきだと思いました」
なんだよ、ちゃんとわかってるじゃねえか!
1995年当時の彼は、ミニコミ上がりの新人編集者で、それがオリーブ少女にモテモテの小山田にじっくり話を聞かせてもらったのだから、正義ぶりっこの糾弾口調はできなかったという立場は想像できる。しかし、だからこそ記事中で「今回、話を聞いてる自分も小山田さんにヘラヘラ調子を合わせてしまった。これがいじめの魔力なのだ」と率直に書くべきだったのではないか――だが、こう書くのもすべて後出しジャンケンだ。
みんな忘れてるが、2000年代以降のIT化で産業構造が圧倒的にデスクワーク中心になるまで、世の中全体が体育会系・ヤンキー系価値観で、それに染まれない奴は半人前扱いだった。当時のわたしも小山田と同じように、ワルぶらないと子供扱いされると思い込んでいた。そして、村上君と同じように、「自分が弱者の正義を説いてもダサいしウケない」と思い込み、過剰に強者に尻尾を振る態度を取ろうとしていた。だが、のちには結局、本心では愛してもいない相手に尻尾を振るのは無理だと痛いほど思い知ってやめた。
つまり、わたしも村上君の元同類なのだ(しかも、もっと能力は低い)。会ったことのない兄弟が醜い自画像を正直に見せてくれたような、イヤな感動を味わうことができた。

■回顧と展望
例によって本年やった仕事の一部を挙げとく。
『最新データでわかる 日本人・韓国人・中国人』(https://www.amazon.co.jp/dp/4569900240
10年前に当方が丸一冊執筆した旧版(累計10万部突破!)の改訂版なのだが、コロナ禍のため多くの分野で統計データは激変し、原稿を9割書き上げた状態から発売が1年延期になった。本書は断固、中韓をアゲて日本をサゲることが目的ではない。が、海外の調査機関の数字データに現れる日本の凋落は残酷だ。感染症対策で日本はアジア4位と見なされ、食の安全だって世界21位とあんまり高くない(韓国は29位、中国は35位)、スマホアプリの売上に至っては中国はわずか3年で日本の1.6倍以上に伸びた。この手の話が次々出てくるが、わざと日本の数値が低い資料ばかり探したんじゃねえぞ、本当だからな。
『日本の歴史的名建築100選』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299019210/
今回は宝島社の名所案内本の集大成のようで、寺社やお城に加え、一般住居まで網羅。当方は和洋折衷の旧開智学校三菱財閥が築いた岩崎邸(アニメ版『うみねこのなく頃に』の宇代宮家のモデル)、アールデコ屋敷の朝香宮邸(東京都庭園美術館)等々を担当。執筆中はコロナ禍のため閉鎖していた施設が多かったのが淋しい。
『1日1話5分で身につく歴史の教養365』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299020170/
カレンダー形式で4~6月のエピソードを担当。ワシントンが初代大統領に就任した日はヒトラーが自殺した日と同じ(4月30日)、朝廷に反逆した藤原純友が死去した579年後の同日、スペイン軍に反抗したインカ皇帝モクテスマ2世は処刑された(6月29日)……地域や時間の連続性を無視して歴史を見るのもまた一興。
『絶滅事典』(https://ddnavi.com/review/866630/a/
消えた文具、交通機関、家電品をおもに担当。きみは多面式筆入れが発売された時期、3輪トラックはいつまで生産されていたか、ワープロ専用機の最盛期はいつだったか、ジャンボジェットが衰退した理由を知っているか?
***
強いて本年の快事をひとつ挙げれば、ここ十数年オリンピックのたび唱えられてきた「感動をありがとう」というフレーズが、いよいよ地に堕ちて陳腐化したことだろうか。
努力した選手への讃辞は大いにあって然るべきだが、漫画『最強伝説 黒沢』の第一話で描かれたように、この手の感動は常に、ブラウン管の向こうにいる選手たちの感動であって、我々は観客席にいるだけで何もしてない。「感動をありがとう」という言葉には、「きみも選手と思いを共有したよね?」という一体感の押しつけの臭いがする。
――が、2021年の日本人は、皮肉にもコロナ禍によって、選手は選手、何もしてない観客は観客という「分断」(あるいは「身の丈」)をいやおうなく自覚させられてしまった。
自分は人々の一体感を全否定する気はないが、本当は分断があるのにあいまいにごまかされている状態よりは、分断が自明なほうが健全だろう。
本物の一体感とは良いことばかりでなく苦痛や恥辱も共有することだ。それこそ、選手も観客もみんな揃ってコロナに感染して等しく病苦にのたうち、それを一緒に乗り越えたのなら、真に欺瞞なく「感動をありがとう」と言うのにふさわしいのではないか。
というわけで当方もせいぜい、見苦しくのたうちながら生きのびるつもりです。
それでは皆様よいお年を。

それでは皆様よいお年を

「炎上うぜえ」「俺個人の自由な時間の方が大事」と思うあまりSNSで発言しなくなって久しいが、とりあえず習慣で年に1度の更新。
■2020年最後の挨拶とか年間ベストとか
ひとまず本年触れたもろもろの年間ベスト。
■1.(とくになし)
本年は「とくになし」です(東日本大震災の2011年も同じだったな)。無駄に時間ができて触れた書物や映像作品などは多かったけど、コロナ禍の現実の印象に勝るものが挙げられない。我ながら想像力貧困だ。
■2.漫画『へうげもの山田芳裕
https://www.amazon.co.jp/dp/4063724875
過去につい途中で読むのを中断したまま、2018年に完結の報を聞いて「頭から読み返すぞ」と決意したまま、うっかり2年経ってしまった。
通読して、漫画的見せ方が本当にうまい作品だったと実感。今さら気づいたが、本能寺で織田信長がまっぷたつにされる名シーン、千利休による陰謀の告白など、「ここぞ」という場面には擬音がない。その結果、止め絵の迫力が効果倍増(ギャグの効果も)。
高山右近南蛮人から手に入れたレオナルド・ダヴィンチの飛行機械が、回りめぐって大坂の陣真田幸村に使われるなど、数々の奇想も山田風太郎に匹敵。風太郎は、卓越した鉱山技術者の大久保長安を「近代を先取りしたマッドサイエンティスト」と解釈したが、同じ山田でも芳裕の方は「近代を先取りした金融資本家」と解釈したのも絶妙。
劇中で古田織部は、江戸幕府の成立後も心情的に豊臣家を支持しながら、保身と俗欲のため正面から家康に逆らおうとせず、さりとて戦場に立とうともせず、文化事業が自分の仕事と割り切る。そして、芝居、絵画、窯業、茶道といった文化事業のなかでも、自分の本領は人を笑わせて争いを回避することだと見定め、それを徹底する(人を嘲笑して優越感を得るための笑いではなく、古田織部はみずからも道化を演じる)。
旧年中、映画『i 新聞記者ドキュメント』(https://i-shimbunkisha.jp/)の終盤で、熱狂的な自民党政権支持者のデモ隊とアンチ安倍のデモ隊が罵り合う場面で、大真面目に自分の正義を信じて疑わない人間同士がつくり出す空気のギスギス感に耐えがたく、「もし俺がこの場にいたら、いきなり全裸になって『ちんぴょろすぽーん』と叫んでやりたい」……などと阿呆なことを考えたが、古田織部の生き様を見て、こういう発想が間違ってないと確信した(←違う)
■3.小説『明治開化 安吾捕物帖』坂口安吾
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43204.html
勝海舟狂言回しにした連作ミステリ(先ごろNHKでドラマ化された)。劇中の時代設定は明治20年(1887年)ごろで、じつは『シャーロック・ホームズ』シリーズが書かれたのとほぼ同時期。
本作はもちろんフィクションながら、明治という時代が持っていた文化、風俗、社会階層の多様性、それらが生みだす軋轢への想像力に圧倒される。
各話のモチーフは、政商と西洋列強の癒着、没落大名と新興商人の格差婚、らい病差別、横浜居留地の外国人による詐欺商売、幼少期から商家に住み込む田舎出の丁稚に女中、神がかりの新興宗教(幕末~明治期は黒住教とか天理教とか沢山あった)、浅草の芸人と西洋仕込みの新劇関係者、町奴に鳶職、大陸浪人、南洋での真珠採取、按摩の家元(盲人ができる唯一の商売で徒弟制だしギルドもある)、新平民(被差別部落出身者)の解放と身分違いの恋……etcetc これらもまた等身大の明治史の一面。たぶん安吾は犯行のトリック考えるより、これら明治期特有の人間関係のドラマを考えるのが本当に楽しかったんじゃないのか。
本書が執筆された昭和20年代と劇中の明治20年代は約70年の時間差、奇しくも本書が執筆された時期と現在の時間差に近い。安吾は本作の執筆にあたり、自分が体験した戦前と戦後の文化や価値観の断絶を、明治維新前後の断絶に重ねたといわれる。そんな本書の発展形として、山田風太郎の『警視庁草紙』が生まれたのも感慨深い。
■4.ノンフィクション『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド
https://www.amazon.co.jp/dp/4794218788
仕事のため10年以上も前のベストセラーを今さら通読。「農耕民より狩猟民の方が戦争に強そうなのに、なぜ世界のどこでも狩猟民は征服されたのか?」という10代のころからの疑問が氷解。狩猟民は基本的な小規模な集団だが、農耕で食料供給が安定すれば人口が増えて兵力も増すし、一定の人口がなければ社会的分業は成立せず、軍事が専業の武人階級も生まれないのか……。
本年の課題に関する部分では、歴史上の感染症の多くは家畜から人間に感染しており(インフルエンザは豚、天然痘は牛、マラリアは家禽が由来)、南北アメリカ大陸の先住民はほとんど家畜を持たなかったので、白人が持ち込んだ感染症への免疫がなかった――という話が印象深い。この理屈にしたがえば、現代でも中東のイスラム圏は豚由来の感染症に対する免疫がかなり弱いんじゃないのか。
■5.ノンフィクション『PUFFと怪獣倶楽部の時代』中島紳介
https://www.amazon.co.jp/dp/4860721594/
1970~80年代の初期特撮ライターたちの一代記。自分はまさに、本書の著者や、その盟友の富沢雅彦、竹内博(酒井敏夫)、聖咲奇らが関わっていたケイブンシャ怪獣図鑑だの、季刊のSF特撮専門誌『宇宙船』でオタク人生にはまり込んだ世代だ。
1971年に刊行された『原色怪獣怪人大百科』の編集には無名時代の佐野眞一も参加していた(106p)、1979年刊行の『大特撮』編集時は、東宝映画の『日本誕生』を見たことのある者がいなかったので、開田裕治が東京まで行って京橋フィルムセンターで見てきた内容を伝えて執筆した(350p)など、意外なエピソードが山盛りである。
21世紀の現在、「特撮オタク」を自称するとヒーロー好きと思われそうだが、彼ら初期特撮オタクは「怪獣オタク」であった。1954年の初代『ゴジラ』から、1966年に初代『ウルトラマン』が放送されるまで、怪獣そのものが主役の時代があり、本書に登場する1950年代生まれの初期オタクの多くはその時期に自己形成した世代だったからだ。
本書で改めて痛感したが、たかが怪獣オタクと言えど、彼らはやはり文化資産に恵まれたエリートだったんだなあと思わざるを得ない。何しろ『PUFF』同人メンバーの多くは東京都内かその近隣の首都圏在住で、親類に映画業界関係者がいて撮影所に子供の頃から出入りしていたとか、小学生の頃から名画座でジャンルを問わず昔の映画を観まくっていたとかいう話が普通に出てくる。途中で地方から上京してきた田舎者が新たに仲間に加わったりはしない(この点は、地方出身・大学デビュー組の初期オタククリエイター群像を描いた島本和彦の『アオイホノオ』と好対照)――そういう面も含めて、第一級の歴史民俗資料といえるだろう。
■6.ノンフィクション『全世界史』出口治明
https://www.amazon.co.jp/dp/4101207720
これも仕事のため急いで読了。何を今さらだが、人類史5000年間で、西洋文明の優位はホンの200年ほどだったという話。
たとえば、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征は、すでにペルシア帝国が築いていた交通網を利用しただけ説(文庫上巻76p)。10世紀の段階で科挙という血筋や家柄ではなく学力による官吏登用システムを確立した宋は、間違いなく当時の世界最先端の国家だった説(文庫上巻250p)。イギリスの経済学者アンガス・マディソンの推計データでは、1700年当時、イギリスは世界のGDPの約3%、フランスは約6%、オスマン・トルコ帝国は約8%を占めるなか、清はじつに22%を占めたとの話(文庫下巻177p)。
つい先ごろも「2028年には中国のGDPアメリカを追い抜く」(https://www.bbc.com/japanese/55457085)なんて報道があった。これを一笑に付すのはたやすいが、1000年スパンの思考では「単に17世紀以前の力量差に戻っただけ」と解釈することだってできるのだ。
■7.漫画『戦争は女の顔をしていない』原作:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/作画:小梅けいと
https://rasenjin.hatenablog.com/entry/2020/02/01/034814
本作品は英雄物語ではない。単なるルポにも留まらず、戦時下に従軍した女性というある時代状況下・環境下の生活史に撤したナマの証言集だ。強いて言えば民俗学であろう。言うてみれば宮本常一の『忘れられた日本人』を漫画化したのと同じ。
劇中、戦後も誇らしげに愛国心を誇らしげに語る女たちを「あんなクソみたいな独裁者スターリンの言いなりになってw」と嘲笑うのはたやすいが、悔しいけど旧ソ連戦勝国である、そら堂々とした態度だろうさ。だが、たとえば黒澤明が戦時中に撮った『一番美しく』なんぞを観れば、最前線の戦場ではなく勤労動員の現場ながらも、日本でも戦時下では若い娘が「こんな私たちでもお国の役に立てるんだ!」と、愛国心に燃えて一致団結する現場があったことがわかる。
同じころアメリカでは、大量の先住民や黒人が軍に参加することで地位向上を果たした。こうして女子供や先住民族もまた、戦争を通じて、マジョリティに従属するだけに身分ではなく一人前の国家構成員となったのが、良くも悪くも「近代」の一側面。
■8.ノンフィクション『夜明けあと』星新一
https://www.amazon.co.jp/dp/4101098492
幕末~明治期の新聞記事スクラップ集。慶応4年(1868年)の『中外新報』記事によれば、コレラ流行下で、栓に使うコルクを焼いて飲むと治るとの流言。この手の疫病デマ、本当に昔も今も変わらず。明治10年(1877年)の『東京日日新聞』記事によれば、西南戦争帰りはモテるので花街で負傷兵を装う者が続出。明治22年(1889年)の『都新聞』記事によれば、物乞いなどに幼児を貸す商法が流行。明治26年1893年)の『東京日日新聞』記事によれば、内務省が「楠木正成の子孫は名乗り出よ」と布告したら、50人が名乗り出たがいずれも本物か怪しかったとの話。明治45年(1912年)の『萬朝報』記事によれば、紡績工場の女子労働者から「1日18時間労働はつらい」と67通の投書あり。
こうした王侯貴族とも英雄とも無関係なしょーもないディテールもまた、歴史の重要な一側面。戦前の日本人はみんな聖人君子だったとか大ウソっすよ。
■9.ノンフィクション『東條英機 「独裁者」を演じた男』一ノ瀬俊也
https://www.amazon.co.jp/dp/4166612735
「東條は早期から空軍力に着目」「開戦時の東條は庶民派イメージで国民に人気」など、従来の東條英機のイメージの刷新をはかった一冊。
序盤、明治末期の1912年、東條英機の父親の東条英教中将が、雑誌『新公論』の誌上で西本国之輔大尉と論争した話(22-24p)が興味深い。現役軍人が自由に雑誌で意見を述べられたのも当時ならではだが、階級が下の者が堂々と将官と誌上論争できた背景には、日露戦争後に広まったデモクラシーの空気(末端兵士の発言力の拡大)があったという。上記『戦争は女の顔をしていない』で述べたのと同じ図式。
先に触れた黒澤明の映画『一番美しく』で描かれたように、東條は国民総力戦体制を整備したが、成人女性の勤労動員には一貫して反対していたという。東條の男女観は保守的で、WW1末期のドイツのように国民の不満が反転したり、動員された女性労働者が権利主張を始めるのを恐れていたそうだ(320p)
大戦末期、近衛文麿らは「国民が納得しないので」、和平交渉の前に艦隊決戦を主張したが、これは「敵米英よりもむしろ自国民のほうを恐れていた」からだという(300p)。
本書の第四章を通して読むと、結局東條は、アメリカが要求する中国大陸からの撤兵を認めようにも、お仲間の陸軍将兵と国民が納得してくれないと考え、日米開戦に踏み切ったらしい。つまり、じつは東條も、果断さではなくむしろ優柔不断さゆえに開戦を選択したわけである。近衛文麿ばかりか東條も優柔不断だったとなれば、当時の日本に本当に果断な指導者などいたのか? 「『空気読め』の国」らしい話である。
■10.国立科学博物館 特別展『ミイラ』
https://www.museum.or.jp/event/93496
展示物は死体ばっかりだが、意外に女性客が多数。古代エジプトのファラオの棺の内側を初めて見たが、華やかな装飾に彩られ、死後の世界に極楽浄土のような明るいイメージを抱いてたのがうかがえる。あと、遺体の保存にはいろんな薬品や香料を用いたようだが、アルコールは使ってなかったと知る。南米では遺骸がしゃがんだ姿勢だが、古代エジプトは直立不動、日本の即身仏は座禅しているなど、文化圏によって埋葬のポーズが異なるのは興味深い。帰りに上野公園の野口英世像に疫病退散を祈願したが、当人も病魔に倒れてしまった野口じゃ力が足りんかったか。
■列外.TVアニメ『赤毛のアン』再放送
■列外.TVアニメ『未来少年コナン』再放送
■列外.TVドラマ『仮面ライダー』再放送
本年の予想外の収穫といえそうなのがテレビ放送の穴を埋めるための各種の再放送。
赤毛のアン』の序盤、風景や草木にいちいち詩的な名前をつけるアンの姿に、今さら「宮沢賢治ってこういう人だったんかなあ」などと妄想。くだらない想像力は人との軋轢も生むが日常を豊かにもする。宮崎アニメの魅力といえばやたらヒロインが挙げられるが、『未来少年コナン』の痛快さは、コナンとジムシー、ダイスの男同士の掛け合いにあったと再認識。初代『仮面ライダー』は、高度経済成長期も末期な1971~72年の風景(赤土むき出しの造成地、建設中で放置された団地、舗装されてない野外の道路)がもはや民俗資料。改めて見返すと、2号ライダー編で山本リンダが「困っちゃうな♪」と言っていたり、当時から東映らしいメタ的お遊びがうかがえる。どうでもいいが、本郷猛の「ライダ~、変身」を「ライタ~、貧困」と変えたら俺じゃ。
■鬼の威を借るネオリベ論者
世間の『鬼滅の刃』ブームとほぼ関係ないが、本作がきっかけで思い至った話。
鬼滅の劇中で上弦の鬼・猗窩座は、主人公の炭治郎相手に「弱者は淘汰されるべきだ」式の俗流ネオリベ論者みたいなことをドヤ顔で語る。俺はこの手の「世の中は弱肉強食だ」と言いたがる人士には食傷してるのだが、それは「大人の中二病」臭がするからである。子供の中二病は非現実的な背伸びの格好つけだが、大人の中二病は「俺こそ現実がわかってる。お前らはお花畑の理想主義者」という顔をするからたちが悪い。
この手の「世の中は焼肉定食だ」論者はたいてい、それが神の定めた自然の摂理だとか、世の中はそう決まっているとか、疑似科学俗流進化論・社会ダーウィニズム)だの、自分より大きな権威を論拠にしてものを言う。ここがうさん臭い。たとえば「”俺は”弱者は淘汰される世の中であるべきだと思う」とか「”俺は”弱者を淘汰したい」と、そいつ個人の意見として言ってるなら、共感するかどうかは別として、欺瞞は感じないのだが。
――確かに自然界は弱肉強食が基本かもしれないが、現実には、世界の海からイワシが絶滅して鮫だけになることはなく、青虫が絶滅してカマキリだけになることもなく、奴隷や農民が死に絶えて王侯貴族だけの国が実現することもない。
世の中には、なんとなく強い者もいれば弱い者もいる。強者に捕食される弱者は大勢いるが、なぜか捕食されず生きのびてしまう者”も”多数いる。良いことでも悪いことでもなく、それが事実現象としての「現実」なのである。
世の中は自由競争で焼肉定食だと力説したがる自称現実主義者は、「人はみな平等であるべき」という理想主義の欺瞞を非難したいのだろうけれど、逆に、常にすべて自由競争で弱肉強食になるとは限らないのもまた現実なのである。
だから、反対に「我こそ弱者、みんな俺に同情しろ」しか言わない人士もまた、状況次第では自分が人を踏みつける側になってるかもしれないという想像力を持って欲しい。
■本年、書き落としたことなど
●1970年生まれなので、今年で50歳になる。自分が10代のころ(1980年代)から見て「50年前」は戦前だった。2000年から見ての1950年は、まだマッカーサー元帥がいた戦後の占領期で、テレビ放送(1953年)も始まっていなかったし、鉄腕アトムゴジラもいなかった。しかし、1970年にはすでに、ほんどの世帯にカラーテレビがあり、『ウルトラマン』や『サザエさん』が放送され、漫画誌には『あしたのジョー』や『巨人の星』が連載されていた時期だ。そう考えると、1970年はあんまり昔に感じない――などというのが老害の感覚なんだろうな。ま、ネットと携帯端末がある生活(これが確立されたのは1990年後期)が普通の平成生まれからすれば、1970年はとんでもない太古であろう。
●良い意味でも悪い意味でもドナルド・トランプにはカリスマ性がある。カリスマとは、それを支持する者たちの方が勝手に見いだすものである。
アメリカでBLM(Black Lives Matter)に関連する暴動が多発した時期、「アメリカ白人男性にだけは同情するが、同じアジア人、日本国内の女子供には同情しない人たち」(日本のリベラル派を逆にしただけ)が、「そら見ろ黒んぼ共は凶暴だ、人種差別反対とか言ってる奴らはクソだ」大喜びし、逆に日本のリベラル派は「BLMの趣旨には賛同するが暴動は共感しない」などとヌルいことを言っていた。
どっちも浅い。「人間ブチ切れればそんぐらいやるさ」って話っすよ。日本でも終戦直後にはメーデーで食糧暴動が起きたし、1960~70年代の大阪の西成では例年のように暴動が起きてたではないか。「そんなのは反日左翼だけで、日本人の大多数は品行方正だ」だって? 1905年に日露戦争が集結した直後には「ロシアから賠償金を取れ! さもなくば戦争を再開しろ!」と”愛国的”な理由で大暴動が起きて、ぜんぜん関係ない市電も焼き討ちされた。右の人士も左の人士も、群集心理の暴走を他人事と思ってはいけない。
●本年、コロナ禍に関連して1918~1920年スペイン風邪があちこちで引き合いに出されたが、一個人的に驚いた事実。高校世界史の用語集としてロングセラーの『世界史B 資料集』(山川出版社)には、なんと「スペイン風邪」の項目がない!! (「黒死病」の項目はあるのに)。世界人口が20億人の時代に推計2000~5000万人が死んだ災厄でも、その前後に起きた第1次世界大戦や世界恐慌の規模に比べれば、受験知識としては覚える必要のない事象と見なされているのである。22世紀には「コロナウイルス? ええと、そんなのあったね」という扱いになっている可能性とて、ありえない話ではない。
■回顧と展望
また備忘録のように本年やった仕事の一部を列記。
『10の感染症からよむ世界史』(https://www.amazon.co.jp/dp/453219993X
ペスト、天然痘、黄熱などの項目を担当。活版印刷の普及とカトリック教会の失墜はペストによってもたらされ、結核療養所は鉄道の普及とともにヨーロッパに観光ブームを広め、マラリア治療薬のキニーネ利権はその原産国であるインドネシアの戦後政治をも左右した。当方担当ではないが、コレラの項目などで取りあげたニセ薬やインチキ治療法の話はまるきり現代と変わらない。14世紀の黒死病時代は約半世紀も続いたが、その間ただ人が死にまくっただけでもない。厄災の下でも人々は日々、飲み食いしたり異性といちゃつき、ルネサンス文化の発端が開かれた。コロナ禍でも長期戦の思考が必要と痛感する。
『真説日本史ミステリー 地図帳で明かす天皇家の謎100』(https://www.amazon.co.jp/dp/4299009959
風水都市の藤原京、なぜか楊貴妃の墓がある熱田神宮、地下に秘密基地があると噂される国立昭和記念公園など、天皇家に関連する歴史的スポットを紹介。古墳時代平安時代と明治以降に話が偏るのを防ごうとしたら、後醍醐天皇関連の南北朝ネタが多くなった。
『絶景×神社 美しすぎる日本の「聖地」完全ガイド』(https://tkj.jp/book/?cd=TD012517
住吉大社伊勢神宮熊野三山大神神社など畿内とその周辺を担当。コロナ禍で実際には参拝できない人を想定して、判型が大きく美麗な写真を贅沢に使ってます。
『一冊でわかる中国史』(http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309811062/
唐代から中華人民共和国まで、全体の約2/3を担当。中高生が想定読者の本ですが、モンゴル族元朝満洲族清朝の違いは何か、朱子学が日本の勤皇運動に与えた影響、宮崎滔天頭山満辛亥革命支援などなど、教科書的記述を補う視点も多く織り込みました。
***
自分はもとより自宅が仕事場の生活を続けているので、本年は驚くほど生活の直接的な変化は乏しかった。最大の影響と言えば、2019年秋から半年以上かけて文庫一冊分書いていた仕事が無期限延期になったぐらい(2020年東京五輪に関連する要素などが入っていたので)。年収も落ちたが、昨年に改元景気で9刷まで行った『元号でたどる日本史』の印税収入とほとんど相殺だ。
何しろ50歳であるから人生の残りはよくて約20年である。とはいえ、こちとら小学生の頃からさんざん「1999年にはノストラダスムの大予言が~」「米ソ核戦争の危機が~」と吹き込まれ、ついぞ何も起きないまま冷戦時代は終わって21世紀を迎え、2001年の911テロも2011年の東日本大震災も、あれだけ世界が大騒ぎしても自分個人には何の影響もなかった世代である。ま、中世の黒死病時代にもスペイン風邪の時代にもこんな奴はゴロゴロしてただろう。世相がどうあろうが、こっちは勝手にしぶとく生きのびるつもりです。
それでは皆様、よいお年を。

札幌国際大学に大月隆寛の解雇撤回か謝罪か説明を求める

 
 

顔面に水ぶっかけられても知りませんよ

(俺がぶっかけるとは言ってない。「顔面に水をぶっかける」であって、殺すとも殴るともホモレイプするとも言ってない)

追悼に代えて

かつて、2005年6月に雑誌『TONR』第2号(https://www.fujisan.co.jp/product/1281681338/b/85569/)の特集記事のため、脚本家・上原正三氏の取材に行ったときのエントリからいくつか再録。

■上原インタビューこぼれ話少々
・『TONE』第2号の特集タイトルは当所「日本の戦争」だった。
そんで力の入った取材企画書と取材依頼文を書いたのだが、円谷プロ経由で依頼を受けてくださった上原氏は、取材当日の最初のお言葉が「今日は何の取材ですか? ウルトラマンのお話ですか?」でした(苦笑)。
・身内の絆を絶対とするような作品を多く書いてる上原氏だが、沖縄は大家族主義で血縁の付き合いが濃いので、帰省の際はお土産買ってくのが大変だという(でも、やっぱりきちんと買っらっしゃるんだな)。その反動か、ご自分のお子さんには放任気味で、ご長女はアメリカにいるそうで。
・そういえば『宇宙刑事』シリーズでは、当時普及したばかりのパソコン通信、ネットショッピングの先駆けなどを取り上げ、悪の組織がそれを利用して人間を堕落させる、といった「便利な物に騙されるな」というメッセージをこめた、資本主義快楽社会批判みたいな作品を多く書いてましたね、と話を振ったら、照れ隠しなのか「そういう新しい物はわかんないから、悔しくてやるんですよ(笑)」とのご返答。
今では脚本や原稿はパソコンで書いてるが、基本的にはITは苦手で、昨年放送の『ウルトラQ Dark fantsy』中の「ガラQの大逆襲」で、セミ人間に仕業で知らない間に自分がハッキングを行った事にされてた、というエピソードなどは、本当に自分の恐怖感が出ていたらしい。

 

 

■怪獣使いの証言
『TONE』誌のインタビューでは、上原氏の手掛けたヒーロー作品の話より、上原氏の戦争体験と、沖縄問題についての見解を聞くことをメインに努めた。
(最後の方じゃ、俺の好きな作品の趣味的な話も聞いたけど)
それでも唯一、上原氏の方から振ってきた自作品の話が『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」の話だった。
畏友ばくはつ五郎こと河田氏(id:bakuhatugoro)が笠原和夫に着目する一方、わたしがなぜ上原正三氏に話を聞こうと思ったかというと、20年ばかり前、雑誌『宇宙船』のインタビューで、同氏が「沖縄から本土を見ている視点が、宇宙人の視点で地球を見ている、という感覚を描くのに役立った」と語っていたのが、強く印象に残ってたからだ。
彼は星から来たウルトラマンと同様「みんな」の外から来た人物だったのである。
上原作品では『帰ってきたウルトラマン』に限らず、『イナズマンF』でも『宇宙海賊キャプテンハーロック』でも『バトルフィーバーJ』でも『宇宙刑事シャリバン』でも、自分が生き延びるためやむを得ずであっても仲間を裏切った人間は、また、例え主人公の友人あっても一度でも私利私欲のために悪の組織の誘惑に負けた人間は、必ず罰が下って死ぬ、という話ばかりが繰り返し描かれている。
そんな脚本を書く御仁だから、俺のようなどっちつかずのコーモリ野郎には覚悟が必要かなあ、と思えば、存外に物腰がサバサバとしたお方だったので安堵したが、そのサバサバした感じは、どうやら「俺は所詮異邦人」という覚悟の産物ではないかと思われる。

 



■この上原作品が凄い
・取材前に上原脚本作品を数本観返したメモから
●『帰ってきたウルトラマン』(第一話「怪獣総進撃」)
・アーストロン出現
 逃げ遅れた村の娘、下敷きになった祖父の側から逃げようとしない
「おじいちゃんと一緒じゃなきゃやだー!」(そこを郷秀樹が助ける)
(→現代の作品なら祖父が「わしに構うな」と言って娘は泣く泣く逃げそうだが
「一人だけ逃げる」という発想が寸毫も無く「死ぬ時は一緒」思想が徹底)
●『帰ってきたウルトラマン』(第五話「決戦!怪獣対マット」)
・MAT本部で、早急にツインテール攻撃を命じる長官とのやり取り
 郷「逃げ遅れた人間が5人、地下に閉じ込められています」
 長官「東京都民一千万人の命を守るためだ。この際5人のことは忘れよう」
 (→「東京都民一千万」を「本土」に「5人」を「沖縄」に替えて考えると…)
 郷「5人も一千万人も、命に変わりありません!」
 長官「長官の命令に背く者はどうなるか、知っておろうな?」
 長官の前でMATのバッジを外して、MAT司令室を出てゆく郷
 (→映画「2/26」のラスト青年将校たちが階級章をはぎ取られるのの逆)
 長官「なぁに、いざという時はウルトラマンが来てくれるさ、ハハハ」
 (→結局、在日米軍任せかよ)
 すかさず司令室を出て郷に一人でつっこむMAT上野隊員
「お前何のためにMATに入った? MATに入って何をしたっていうんだ?
 帰るところがあるからって、これじゃ無責任すぎるじゃないか!?」
 その後さらに、単身アキの救助に行く郷を手伝いに来た上野隊員
「俺はお前のように帰るところがない、だからMATに賭けてるんだ」
(→郷と上野の違いは、まるで応召軍人と職業軍人の違いに見える)
●『イナズマンF』(第12話「幻影都市デスパーシティ」)
・デスパーシティのサイボーグ兵士要員ハント
「いやだー、助けてくれー」と叫びながら走ってくる少年
 追ってくるデスパー兵士と、デスパーシティ市長サデスパー
「ここでは15歳になるとみんなサイボーグにされてしまうんです」
(→まるで徴兵じゃねえか)
・デスパーシティ内部の協力者の弟
 (実は裏切ってイナズマンをデスパーに密告していた)
「俺はデスパーシティの外に出たかったんだ?」
 (上原氏が『七人の刑事』用に考えていた幻のシナリオ腹案「パスポート」(米軍占領下当時の沖縄から出たかった若い男の話)とそっくり)
●『宇宙刑事シャリバン』(第42話「戦場を駆けぬけた女戦士に真赤な青春」)
・ダム地下の秘密基地に向かう伊賀電と、同志のイガ星人戦士のベル・ヘレン
 ダムの上で思いつめた顔の婦人(実はレイダーの刺客)を見かける
 基地に来て
 伊賀電「いいかいヘレン、俺以外の人間に、あのドアを開けちゃいけないよ」
 伊賀電が去ったあと、ダム上をモニター監視するベル・ヘレン
 さっきの婦人を「自殺するつもりじゃ……?」と飛び出してしまう
 謎の婦人が男と一緒に写っている写真を見るベル・ヘレン
 ヘレン「どなたかここで(亡くされたんですか)?」
 謎の婦人「このダムの建設に関わって、豪雨の時に見回りに……
 強引にでも、引き止めれば良かった……」(まるで戦争未亡人のようだ)
 (一瞬、オーバーラップする、ヘレンの同志が殺された場面の回想)
 結局、不意打ちにやられてしまうベル・ヘレン
 助けに来たシャリバン
 ヘレン「シャリバン、ごめんね…」
(→洞窟みたいな場所で、篭もってないといけないのに、人を助けるつもりで
 当人は良かれと思って出て行って、死ぬ、というパターン)
――まあしかし、ご興味を持たれた方は、上原氏自身の著書『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(https://www.amazon.co.jp/dp/4480885072/)と切通理作怪獣使いと少年』(https://www.amazon.co.jp/dp/4800306159/)をご一読されるのが一番お勧め。

 


上原氏にはその後、東日本大震災の記憶も生々しい時期の2011年夏、月刊『ヒーローズ』の創刊準備号のため再び取材した。このときも、琉球人としての「外部からの視点」を強調し、均質化して海外に向けない現代日本人への違和感や、琉球と同じく歴史的には日本の僻地だった東北へのシンパシーのような意識を語っていたのが印象的だった……。
――思えば、わたしがなぜ特撮オタクなのかといえば、小さいころからずっと、人類に殺される怪獣ゴジラや、左右非対称の醜い人造人間のキカイダーや、『ウルトラマン』で地球の人々に見捨てられた恨みの炎を放つジャミラや、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」で市民に袋だたきにされるメイツ星人などなどの姿に、人間社会で疎外される者の影を見てきたからだ。
そこから、単純な善悪で割り切れない世界、差別される者の孤独と悲哀を感じ取った人間は、きっとわたし一人ではないはずだ。
そんな感性を忘れない「昭和の子供」を作った一人が上原正三だった。
――ありがとうございました。