電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

オタク差別・ロリコン差別は正当な差別か?

このブログではいつものことだが、あえてわざと時機を逸した後出しジャンケンを書く。
7月頃、岡山小5女児監禁事件のせいでまた数年ぶりにオタク差別問題が盛り上がった。で、例によってメジャーなマスコミは美少女キャラがばんばん出てくるようなアニメ好きとかロリコンを犯罪者予備軍扱い、ネット世論は俺らを差別するなとブーイングの大合唱といういつもの図式。1989年の宮崎勤逮捕から進歩なし。
まず断っておくけれど、以前も述べたが、わたしは熱烈な差別主義者である。ネットワークビジネス従事者は強制収容所送りにしたいと本気で思っている。男女は平等であるべきとも思わないから、女性に重たい荷物を持たせるのはイヤだ。
そういう人間だから「とにかく差別はよくない」とか凡庸なことを述べる気はない。

先天属性差別と後天属性差別に違いはあるか

さて、オタク差別をめぐっては、女性差別、在日差別、障害者差別、ユダヤ人差別、黒人差別…etc のような先天的属性での差別と、趣味志向や職業などの後天的属性での差別は同列か? という問題がある。
一部の反ヘイトスピーチ論者は、在日差別や女性差別や人種差別はケシカランが、いかがわしい趣味志向で人を差別するのは正当だと述べる(反対に、趣味志向で差別されるのは嫌うのに、特定の人種民族の人間はみんな一緒くたに差別する人間もたくさんいる)。
だが、先天的属性による差別も後天的属性による差別も、属性の範囲の広さの違いで、差別であることに変わりはないのではないか?
たとえば、わたしは地方出身だが、わざわざみずから好きこのんで上京して東京都中野区在住者となった。これをたまたま東京地元生まれの人間から「田舎者は東京に来んなよ」とひとくくりにコケにされれば腹が立つ。「いいや、ただ東京生まれってだけで何ら社会に貢献してないニートだっているじゃないか、後天的に東京都民になった俺だって中野区に納税してるぞ!」と言ってやりたい(←たとえば、この「東京」を「日本国」に置き換えて考えてみよう)
ところが、こう言うと今度はわたしがコケにしたニートの中にも、過去には働いてたがブラック企業で心身を患って働けなくなった者、家に金はあるが親の介護に追われている者、ニートなのを恥じて働いてる周囲の人間にはひたすら謙虚で親切な者…etc ニートでも善良な人間もいるかも知れない。わたしはそれをひとくくりに差別していることになるわけだ。

なぜ同じオタク犯罪者でもロリコンの誘拐犯は特別に差別されるか

わたしが狂信的に差別するネットワークビジネス団体・旧「リバティコープ」の連中は、いわば「高級車・高級ブランド品オタク」だった。熱狂的に耽溺する対象がガンプラエロゲーではなく、シャネルやグッチやベンツやフェラーリであるというだけの話だ。
たとえば、高級車や高級ブランド品欲しさに犯罪を行なう者や、何かの事件で逮捕された犯人が美少女フィギュアやアニメのポスターではなく高級車や高級ブランド品をたくさん持っていたというケースだって充分あり得るだろう。だが、世間の多数派が「高級車・高級ブランド品オタク」を叩くことはまずない。考えてみれば理不尽な話である。
これはなぜか? まず、高価な宝飾品を集めるという趣味なら古代からあり、違和感もなく定着している。ところが、本来子供向けの文化ジャンルであるアニメやゲームや漫画に耽溺するという趣味は、まだ比較的に歴史が浅いので珍奇に見られるだろう。
高級車や高級ブランド品オタクが高級車や高級ブランド品を大量に窃盗したり、それらを買う金欲しさに強盗を行っても、昔からよくある犯罪の一パターンとしか認識されず、また、犯罪の標的は宝飾品店などで、自分の身近な日常空間に住んでいる人間を脅かす「異常な価値観を持った危険な異物」とはあまり思われないのだろう。
これに対し、宮崎勤や岡山小5女児監禁犯のようにロリコンのオタクが犯罪に走る場合、目的は高級車・高級ブランド品のような商品や金を得ることではなく、たいてい性的欲求目的で幼女を所有するため誘拐、という形を取る。
性的欲求目的で女性を所有する志向なら昔からある。古代の王侯貴族だってハーレムを作っていた。だが、子供が保護されるようになった近代では成人男性は成人女性に性欲を向けるのが一般的というタテマエがあるので、幼児に欲情する性的志向は異端視される。
ロリコンの誘拐犯というのは腕力も判断力も弱い幼児を無理やり支配下に置いて、幼児とはいえ人格ある人間の自由を奪って毀損する。つまり昔からよくある高価な商品目当て金目当ての犯罪よりも卑劣で異常な犯罪と見なされるのだろうし、一般人は「自分の子供や近所の子供が脅かされるかも知れない」という不安を駆り立てられるのだろう。
よって、同じオタクの犯罪でも、たとえば鉄道オタクが駅のプレートや列車の部品を盗んだり、それらを買う金欲しさに強盗を行っても、こちらは物や金が目的のよくある犯罪に分類され、「鉄道オタクだから異常で危険な人物」とは見られないのではないか?
いや、それこそ同じロリコンのオタクによる犯罪事件でも、単にロリータ物のエロゲーを大量に窃盗したとか、ロリータ物のエロゲーを買う金欲しさに強盗を行ったという話なら、ここまでは騒がれないのではないだろうか。

そもそも差別はなぜ不快なのか?

しかし、ロリコンのオタクにだって犯罪を起こさない人間は大量にいるし、それこそ私生活ではロリコンのオタクでも優秀な学者や優秀なビジネスマンもいるはずだ。たまに犯罪者が出たらそれと一緒くたにしないでくれ、というのがオタク差別批判者の言い分だろう。
そう、差別とは、人間が持つ多様な属性を捨象して、差別者側の一面的なレッテル貼りのみで一方的に評価する行為だから失礼なのだ。
わたしが差別する旧「リバティコープ」の経営者も、私生活で嫁だか彼女だかの前では優しい良い男なのかも知れないし、現在の取引先の人間にとっては礼儀正しく仁義に篤い優秀なビジネスマンなのかも知れない。だが、わたしにとっては、そんなことは知ったことではなく、旧リバティコープの経営者であるという一点のみで全人格否定すべき最低のクズ野郎なのである――とまあ、これが差別者の論理だ。
反対に、わたしが「これだから葦原骸吉のような無能ライターは」と名指しで罵倒されても、文脈次第ではまあ仕方ないと思えるが、わたし個人の仕事評価ではなく、たとえば「これだから九州出身者は」と、ほかの九州出身者とひとくくりにされると不快だ。
近代以前の世の中ならば「尾張国の漁民なにがし」「薩摩国の庄屋誰それ」といった呼び方で全アイデンティティが表現できてしまったかも知れないが、現代では職業選択の自由と住居移動の自由が認められているのだ、これを捨象して当人が望まない分類で他の者とひとくくりにするというのは、少なくとも近代人の間では失礼な行為なのである。
これも以前一度述べたが、たとえば西尾幹二という人がいる。東京大学文学部独文科卒、電通大学教授、ニーチェ研究で名高く、三島由紀夫福田恆存とも親交が深かった大インテリだ。が、これらの業績を一切無視してひたすら西尾氏を「ハゲハゲ」と呼べば、西尾氏は不快がるだろう。
西尾氏が怒った場合「実際に西尾氏はハゲているのだから事実を言っただけだ」と言い返すのは小学生の論法だ。事実を指摘しただけでも、それを当人がいやがっているのなら法的には侮辱罪が成立する。
この属性が「ハゲ」ではなく「朝鮮人」でも「ロリコン」でも何でも図式は同様である。
在日朝鮮人フリーライター李信恵はネットや街宣活動で「朝鮮人のババア」と連呼されたことで名誉毀損の訴訟を起こした。これに対し、朝鮮人なのは事実ではないか、という意見があったが、相手が嫌がれば罵倒になるし、そもそも嫌がるから言ってるのはバレバレだ。つまり、事実の指摘でも罵倒や侮辱であるかは文脈によって決まる。
ここで「それは差別じゃないか」と言われたとき「差別ではない、区別だ」というお約束の方便でごまかす人間はニセモノだ。
こう書いてるわたしが、もし旧リバティコープ幹部に文句を言われたらどう答えるか?
「ハイわたしは差別者です。世間が認めなくても俺個人はネットワークビジネスが大嫌いだからお前らを差別する」と胸を張って言う。
そう、突きつめると差別とは好き嫌いなのだ、そして好き嫌いは善悪とは別の問題である。人参やピーマンが健康に良くてもそれが嫌いな人は嫌いだし、酒や煙草が健康に悪くても好きな人はそれが好きである。たとえわたしが法的に訴えられて敗訴しても、ネットワークビジネスが大嫌いという感情は変えることができない。

汚れも自分の一部と認められない人々

熱烈に差別に反対する人は、よくそのために被差別者を一点の汚点もない聖人君子か何かに祭り上げてしまう。だが、これは被差別者を女性であるとか障害者であるとかいう属性のみでひとくくりにして個別に見ないという点で、差別者側とまったく変わりない。
断っておくが、この問題は「オタクを差別するな」という人も同様である。アニメでも漫画でも健全な作品しか消費してないオタクだって沢山いるだろうが、オタクは全員人畜無害な趣味の聖人君子かといえば、わたしは他ならぬ自分からしてそうは思えない。
エロゲーやエロ同人誌には一方的な陵辱レイプ物とか本当に鬼畜で反道徳的な内容の商品は本当に山ほどある。そして、平野耕太虚淵玄など、そういうバイオレンスなエロ漫画やエロゲーから才能を開花させた優秀なクリエイターだって珍しくない。
オタク文化の輝かしい部分もいかがわしい要素とない交ぜに発展してきたことを無視してはいけない。ミステリが今のような市民権を獲得する以前、江戸川乱歩だってさんざん色モノ変態作家と見なされた(←まあ実際その通りの面もあるが…)。
ところが、昨今はこういう「汚れも自分の陣営の一部」と認められない人が増えているから困る。在特会など「行動する保守」界隈から逮捕者が続出したら、彼らを支持していたはずの人間から「在特会は在日の自作自演」という斬り捨て発言が出てくるのはいい例だ。
ここでいう「在日」とは「とにかく僕らの仲間ではない奴」という意味で、「地球人に化けたバルタン星人」と言ってるのと同じだ。どんな集団でもこのような、内部から発生した問題を率直に認められない思考では、自浄作用は期待できない。
とはいえ「自分の陣営は絶対潔癖!」と信じ込める人だから差別者になるんだろうけど。

妥協案は「差別はあるが差別者も差別される社会」

弱者がみな聖人君子とは限らない以上、被差別者がまた差別者になる図式も珍しくない。つい先日も知的障害者が盲人の女性を罵倒する事件が起きた(なお、ネットで盲人の女性を罵倒した側に同調した人間は、知的障害者と同レベルということになるw)。
人間の「差別欲」を駆り立てるのは、多くの場合は「俺だって下等なあいつらよりは偉い」という優越感の快楽だが、現時点で弱者の立場にある者が強者の立場にある者を罵倒するのも差別たり得る。WW1後のドイツでは貧乏な底辺ナチス党員が金持ちエリートユダヤ人を罵倒し、イスラエルユダヤ人はナチスにやられたことをパレスチナ人にやり返し、アメリカのブラックパンサー団は白人を「白い悪魔」と呼んで罵倒する。
歴史上、昨日の被差別者は明日の差別者、という図式は少なくない。だから、無学歴低収入で最底辺のわたしが、高級車高級ブランド品まみれのオシャレでイケてる勝ち組集団だった「リバティコープ」を罵倒するのもまた差別なのだ。
このようにわたし自身も差別者であるから、差別を全廃すべきとも差別が全廃できるとも思わない。ただし、差別者と被差別者の力関係が絶対化するのは好ましくないし、世の中にいる多様な人間の中で、ある一勢力のみが差別されるのも好ましくない。
だから、たとえば、ユダヤ人がロリコンを差別し、ロリコンがホモを差別し、ホモが黒人を差別し、オタクがリア充を差別し、わたしがネットワークビジネス従事者を差別し、この文章を読んでいるあなたが底辺フリーライターのわたしを差別する……というようにさまざまな差別と被差別が入り乱れ、結果的に絶対優位も絶対劣位もなく拮抗している状態、ぐらいが、まだしもマシな状態ではないかと思う、当然ながら最善ではないが。