電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

属性による排除は(たぶん)解決にならない

前回わたしは、個別的な個人ではなく、顔のない属性としての「おばさん」――ここでの定義は、生産労働という自分の責任所属フィールドを持たず、ご町内とか親類内とか狭い世間の中での身内の噂ばかりに興じている人で、もっぱら専業主婦、という意味――を一方的に嫌悪的に書いた。
しかし、そういった「おばさん」も、たとえば山田さんちのお母さんとか、鈴木さんのちの奥さんとか、そういう個々別の顔でみたときは、ぜんぜん悪い人間ではなかったりする。
そんなことはわかっているのである。
しかしそれが、山田さんちのお母さんとか、鈴木さんのちの奥さんとかいう個々別の顔ではなく、集団属性としての「おばさん」として、二人以上集まると(四人以上になるともう手に負えない)、感情的好悪で、その場にいない身内の人の噂話で盛り上がって止まらず、その価値観でこっちが裁断されてしまうから手に負えないのだ。
しかし、人間を個別に見ず、たとえば性別でも出身地でも学閥でもなんでも、属性だけで割り切って拒絶したり排除するのが解決になるかというと、そうは思えない。
そのよい例が痴漢問題のような気がする。
多くの鉄道で女性専用車両が導入されているが、これは「男は痴漢する側」「女は痴漢される側」という、ひどく大ざっぱな属性での排除で済ませただけで、ぜんぜん、個々別の痴漢を打ちのめすことにはなっていない。
(これではただの男性差別ではないか? と思うが、逆に「男性専用車」を導入しても、ホモ痴漢に対しては抑止力がない。じゃあ「痴漢専用車両」を導入して痴漢したい奴同士でやってくれ、とか阿呆なことを考えてしまう)

枯れ尾花のような悪党

それで痴漢というのが、筋骨隆々で元気いっぱいに「よっしゃあ! ワシは痴漢するでぇ!! すべての女はワシの性欲のはけ口じゃあ!! ガハハハハハハハ」とかゆーよーな、24時間365日わかりやすく男根原理丸出しの頭の悪い暴力的なヤツばっかりなら、こっちも、よし、そんなヤツは思い切り金属バットでブン殴って死ぬまで刑務所に放り込んどけ! と思うのだが、遺憾ながら事態はそんな簡単な話ではなかったりする。
多くの痴漢事件の記事を読むと、いざ痴漢が逮捕されてみると、上記のようなヤツもまぁたまにはいるのだろうが、むしろ、学歴も地位もあり普段はネクタイ締めて真面目に働いてるのに「いやぁ、そのぉ、すみません、つい、やっちゃいましたぁ」などと小声で済まなそうに言うような、気の弱いヤツだったりするというオチなのである。
だからこそ救われないのだ。
痴漢に限らず、DVで捕まる男も妻子相手にしか強がれないようなしょーもない男だったりするし、公共機関や企業で、巨額の横領やら粗悪商品の大量流通などの不正をやらかす犯罪者も、捕まってみれば、案外とごく地味ぃな、気の弱いヤツだったりする。
悪党がわかりやすく悪党だったら楽なのである。
ところが実際は、とんでもないひどい悪党かと思って捕まえてみたら、ぜんぜん普通の、むしろ責めるのが可哀相になってくるよーな、しょぼいヤツだったりする。
これでは「このクソ悪党、ブチのめしたるッ!!」という燃え上がった怒りはどこへ行けばよいのか? という気分になる。

となりの虐殺者

こういう話は珍しくない。
ハンナ・アレントアイヒマン裁判記録によると、ユダヤ人大量虐殺のナチス戦犯であるアイヒマンは、じつは狂信的な反ユダヤ主義者でもなんでもなく(ヒトラーの『わが闘争』は読んだこともなかった)、本当にただの、地味ぃに真面目な公務員だったという。
で、それが地味に真面目な公務員の職務として、右から左へ流れてくる書類にぽんぽんハンコを押すのと同じような感覚で、右から左へ流れてくる大量のユダヤ人を虐殺した、という話であるらしい。
1994年に起きたルワンダの民族大虐殺を描いた映画の『ホテル・ルワンダ』を観ると、ツチ族住民を大虐殺したフツ族住民も、大量にぶち殺されツチ族住民も、基本的には、悲しくなってくるぐらいに普通の人間ばっかりだった。
ふだんはなんの変哲もない生活を送っている連中が、自衛のためと称して民兵組織を作り、これまたなんの変哲もない隣の住民を、あいつは敵対部族だからという理由でぶっ殺す。
恐らく、旧ユーゴスラヴィアの内戦で昨日まで隣同士に住んでたクロアチア人とセルビア人が殺し合いになったときも同様な感じだったのだろう。
でも、こういう話、みんな地球の反対側の他人ごとだと思ってるだろ? フツ族ツチ族ってどう違うの? クロアチア人とセルビア人って何が違うの? 区別がわかんね、と。
こういえば激怒する人もいるだろうが、世界の多くの人々には、日本人と韓国人の区別も多分わかんないよ。*1

脱糞中の愛国者愛国者か?

多くの単純なネトウヨ嫌韓厨は、韓国人はすべて365日24時間いつも狂信的な反日思想しか口にしてないとでも思い込んでいるようだが、本当にそうなら話は楽だ。
実際には、日本の悪口を言う人間の多くも、そのとき以外の年間の大半、一日の大半は、平均的な日本人と同じように、飯を喰ったり、家族と日常会話をしたり、風呂に入ったり、職場で(日本とはなんの関係もない)目先の仕事をしたり、韓国内のチーム同士で行なわれるスポーツの試合に熱中したりといった「日常」を送っているはずである。
恐らく彼らも、同じ韓国人の子どもには優しい顔を向けているであろう。われわれも、同じ日本人の子どもには優しい顔を向けているように。
逆にいえば、日本で、自分は憂国の士だと思っている人間も、果たして、ふつうに飯食ってる瞬間や、トイレで脱糞している瞬間においても憂国の士なのだろうか?

*1:余談ながら、北朝鮮のミサイル打ち上げは日本人には大問題でも、悲しいほど国際社会からは関心を持たれていないようにしか見えない。だが実際、実弾が着弾したわけでもなく、今回日本人には一人の死者も出てはいない。ところが同じ時期に起きたイタリアの震災では死者が多数発生し、紅海ソマリア海賊事件でもぽんぽん死者が出ている。でも日本人の多くは、イタリアにもソマリアにも、日本に関係しない限り大して興味は持たない。世の中そんなものなのだ。

雛見沢の「空気を読め」天皇制

わたしはルワンダや旧ユーゴのような「ふつうの人」による集団凶行の類がいっさい他国の話とは思えない。
いきなり奇をてらった例を持ち出すが、たとえば『ひぐらしのなく頃に』の話の舞台になる雛見沢という架空の村では、住民がグルになって村の存続を脅かす外敵をぶっ殺すわけだが(正確には、そう言われているだけで、噂が一人歩きしているのだが)、重要なのは、この雛見沢の住民がとくに邪悪なわけではないとゆうことだ。
ふだんはまったく普通の生活を送っている人間が、必要に迫られれば凶行も行なう。しかしその翌日には家族と普通の生活を送っている、こう考えると怖い。
村の重鎮が「あいつは村にとって邪魔だね」と言うと、そいつのことを明確に「殺せ」と言わずとも、下々の人間が自分から「空気を読んで」邪魔者の排除を実行する。しかし、何しろ誰も明確に「殺せ」なんて言ってない。でも、結果的に邪魔者はパージされたのだから、村の住民はみなそれ以上の詮索はしない、ということで調和が保たれる。
わたしはこれが、いちノベルゲームの特異な設定とは思えない。このシステム、どこかで現実にあった気がするぞ? なんだ(イヤ〜な意味での)天皇制じゃねえか、と。
戦前の日本では、皇室関係者が政治家などの名前を挙げて、なんとなく「あの○○という男は困るね」とか言うと、それが回り巡って下々の右翼に伝わり、「空気を読んだ」右翼によってその○○というヤツが暗殺される(追記:実際には、襲撃の前に警告→そのうち失脚か?)、というシステムが機能していたという。
この手のシステムはあちこちで見られる。
以前も一度書いたが、わたしが1990年代の初頭に一水会鈴木邦男氏の勉強会に出入りしている人物から聞いた話では、多くの右や左や宗教の団体には、創価学会の関係者が入り込んで内部情報を探ってたりするそうである。で、重要なのは、別に上層幹部がそういうことをやれと明確な指示を出しているわけではなく、命じられなくてもそういうことを自発的にやる人間がごろごろいるのだそうだ。

空気のような象徴圧力

下々の人間が「空気を読んで」自発的にやったことなら、上の人間の責任は問われない。
もっとも、組織上層の人間も少し考えれば下々の連中の心理と行動の見当はつく。
この点、イッセー尾形昭和天皇を演じた、ソクーロフ『太陽』では、昭和天皇は、自分をとり囲む軍人や政治家とのすれ違いぶりに振り回されながらも、一方で、当人に悪意はないまま(←ここが重要!!)そういう下々の人間の心理と行動をわかることができていない天然ボケのような人物として描かれる。
映画『太陽』のラスト近く、昭和天皇人間宣言を音盤で発表することを決めたあと、皇后と再会する。皇后に抱きつく昭和天皇はいたってふつうの人らしく微笑ましい。ここで観客は、不自由な現人神天皇は等身大の人間天皇になれて良かったね、と思う。
ところが、直後に、人間宣言の収録を命じられた録音技師が自決したと伝えられ、桃井かおり演じる皇后は、すさまじく気まずそうな顔を見せる。
イッセー尾形演じる昭和天皇は明らかに、自分が神格を否定すれば、彼を崇める臣民がそれを認められずに自決する、とかいう事態が理解できない男として描かれている。
だが別に、そういう昭和天皇が極悪党なわけもないのだ。
しかしこれでは、天皇の名のもとに(←天皇自身の意志とは関係ない、ここがまた重要)人を死に追いやるシステムの責任は誰に問えばよいのだ? となってしまう。
こうなると、この場合の「天皇」は、ほとんどあってもなくても同じ存在だ。
実際、女子高生コンクリ詰殺人事件の少年(当時)たちなんてのは、誰が明確な言いだしっぺともつかないまま、集団凶行におよんだのではないか? という気がする。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20061201#p4
強いていえば「空気を読んだ」結果の集団凶行か?
……そんなわけでまたなんのオチもないが、この手の話をしだすと毎回、挙げた拳の持って行き先に困って終わるなあ。