電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

どうしょーもない話

いつものように今さらなタイミングでの話。
「年収3000万円ある芸人の母親が生活保護を受けていた件」が随分と引っ張ってる模様。
芸人同様フリーランスで零細のわたしも到底自分の親を扶養する力などない。まあでも、一瞬とはいえ年収3000万円も得たら少しは親に仕送りしてやれよ、とは思う。が、この芸人氏自体のことはよく知らん。
ただ、自分の親族の実例をひとつ証言したい。
個人のプライバシーがあるゆえ詳細は伏せねばならんが、九州在住の親類に一人、さんざん親族に生活費をたかってる女性がいる。
彼女は若い頃に一度結婚して離婚後はすっぱり元の亭主や子供と縁を切り、ずっと一人で店をやっていたのだが……まあ商売が下手なのか、慢性的に金には困っている。傍観者としては自業自得に見えなくもない。しかし地元に住んでいる親類としては、彼女を見捨てて、その結果、困窮の末に死なれてしまっても寝覚めが悪い。
そんなわけで、わたしの父や兄がたびたび彼女の要求に応じて、生活費の補助を行なっていた。とくに兄(とわたし)は幼児期、親父の仕事の都合で短い一時期彼女の家に厄介になっていたので、一応は恩義がある。
とはいえ、客観的には、わたしの父や兄も一方的に彼女にたかられ放題にしか見えない。
もし彼女に生活保護を受けさせたなら、支給額は月十何万円なりと行政によって定められた金額の枠内にとどめられる。ところが、親族への借金要求(返済してもらえるあてはない)なら、際限というものがなく、そのつど当人が自己都合で言い値を要求する。一回当たり何十万円という単位だったようだが累計額は何百万円になるかわからない。
「そんな一方的要求は断れよ」と言う人もあるだろうが、それはたまたま地縁血縁からフリーなつもりの都会人の一方的な見方である。
わたしも商売の才は皆無に等しい人間で、現在原稿料収入のみの綱渡り生活であるから、彼女を責められる資格はあまりない。そして故郷を放り捨てて勝手に一人で都会でフリーランスをやっている身分だから、地元に残った親や兄弟に物を言う資格は一切ない。
もし仮に地元にいる兄が亡くなり、幼児期の恩義からわたしが彼女の生活を支援するよう迫られても、わたしには到底これに応じる資力はない。何せ、わたしは月収が50万円の月もあれば、5万円しかない月もあるよーな人間なのだ。むしろ親元住まいでなくても喰えてるのが奇跡的なぐらいである(この一点だけ赤木智弘に勝った←セコい)。
逆に、仮に将来わたしが困窮した場合、地元に残っている妹の方にわたしの扶養義務が課せられても、妹にしてみればとんだ理不尽な迷惑でしかないだろうと思う。わたしは妹がまだ小学生の時に一人で勝手に東京に出て行き、以後20年間、親父の葬式の前後数回しか会っていない……なんでそんなゴミ愚兄を養ってあげなければならんのだ?
――多分こんな話、日本各地で珍しくもなかろう。そりゃあ地元できちんとした勤め人をしていて、生活に困った親兄弟を扶養できるなら、扶養してやるのが理想的だろうさ。
そうはいっても、どこの田舎にだって「悪い人じゃないけど親族のお荷物」という人もいれば、親族の扶養義務で一方的に損をさせられる人間もいるのだ。
となれば親族がいても生活保護でも受けて貰うしかない場合だってある。実際、わたしの別の知人には、働けない身体なのだが父親には幼児期にはぐれて母親とは致命的に仲が悪く、仕方なく生活保護を受けている人物もいる。
幸いわたしの母親は同居している妹が養っているが、わたしは母親に対しても、上記の某女性に対してもたまたま扶養義務を免れているだけで、河本君と同類の人間なのだ。
このようなわたしを人でなしのクズと罵りたい方があれば、甘んじて受けよう。
もちろん、わたしや河本君を罵りたい人に、実家住まいで親に生活費を払ってない人間はいないよね?

「良い時代」なんてない

・江戸時代
 あくせくしてなかった / 身分社会で出世の場が少ない・医療が未熟で寿命が短い
・明治前期
 文明開化が進んだ / 富国強兵のため徴兵や就学や納税などの国民の義務が増えた
・明治後期
 欧米と対等の軍事大国になった / 義務がますます増えて女工哀史足尾鉱毒
・大正
 薩長藩閥が力を失い民主主義が進んだ / 政治腐敗と大資本による搾取も増大
・昭和前期
 戦争で日本の支配地が増えた / 軍人支配で不自由・最後には生活物資が不足
・昭和中期
 平和になり経済成長が進行 / 公害や交通事故が増えた・産業のない地方が衰退
・昭和後期
 豊かになり消費社会が完成 / 高級ブランドを持たねば人にあらずのバブル価値観
・平成
 再びあくせくしなくなった / 長期不況で少子高齢化で経済が停滞

彼は昔の彼にあらず

渡辺京二『逝きし世の面影』(isbn:4582765521)が静かにロングセラーだそうで。
この本の解説自体はほかのブロガーに譲るが、もし本書の内容を「それ見ろ昔の日本民族はこんなに立派だったんだ!」という自画自賛の材料に使おうとする者がいるなら、そいつの目はブラックホールより大きな節穴だ。そんな野郎は典型的な、愛国者のつもりのキモい自己愛バカである。
筆者自身も述べているが、本書中のような明治維新以前の日本人の美徳はほとんど、近代的な価値観が普及していない当時の環境ゆえのものであって、現代日本からすれば、ほぼ完全に滅び去った過去の風景だ。
そして上記のような主張をしたがる自己愛的保守主義者には都合悪いことに、当時の日本には専業主婦など存在せず(みんな農民や漁民や個人経営の商店などの家業があったんだから当たり前)、女性は平然と酒や煙草を嗜むものだったこともしっかり記されている。現代の保守的家族像なるものも、限られた時代環境の産物に過ぎない。
翻って言えば、戦後70年の歴史で5年間しかなかったバブル時代が永遠に続くべき基準とか思ってる竹中平蔵以下の新自由主義者は、居酒屋で学生運動の自慢話する全共闘オヤヂと同レベル、いやチョンマゲや帯刀の復活論者と同レベルである。
人間は皆ある日いきなり空中から生まれてきたわけでもなく、父母がいて、さらに祖父母がいてその祖父母……という連続性のもとにある。しかし、祖父の手柄は自分の手柄ではない。自分の手柄も祖父の手柄ではない(祖父や親の財力のおかげで手柄を立てられた場合はありえるか。でも自分がすでに亡い祖父や親の生前に寄与する力はない)。
昔と今の「良いとこ取り」は無理なのだ。