電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

暴力よりイヤな暴行

先日、なぜかホモレイプされそうになる夢をみた、うげぇ。
不快な気分で目が醒めてから改めて気づいたことがある。わたしは10数年前に付き合わされたネットワークビジネス団体のことをいまだにしつこく嫌悪しているわけだが、レイプと宗教団体や悪徳商法の勧誘には、似たような要素があるな、と。
レイプと勧誘に共通するイヤな点、それは無理やり「関係を強制すること」だ。
これが相手から一方的に殴る蹴るなどの暴力を受けたとか、一方的に金銭を恐喝されたり搾取されたという場合なら、自分は純粋な被害者だと主張できる。
だが、相手から強引に性行為を迫られたとか、商品の購入や団体への入会を迫られた場合は、先方には「合意の上だった」という言い訳の余地がある。
レイプと勧誘が、普通の暴力や搾取と異なるのは、相手からの一方的被害ではなく、相手との間に、共有したくないものを無理やり共有させられる行為であるという点なのだ。
レイプが単なる殴る蹴るなどの暴力より悪質なのは、身体的に痛いのに加え、精神的な屈辱が加わる点だ。それも男がレイプされたとなると、同情されるどころか物笑いのネタにされ、ひどい場合は「犯されたせいでホモに目覚めた」などと不本意きわまりない事をはやし立てられる。まさに「不本意なものと関係づけられるイヤさ」である。これは本当に気持ち悪い。

「お前も食ったろ」とブラック企業

これと似たような図式で、田舎の小中学生にありがちなイジメのパターンに「万引きを強要させて、さらに盗んできた物を食わせる」というものがある。
これは本当に陰湿だ。命じた側は「お前も食ったろ?」と共犯意識を強要してくるのだ。お陰で親や教師に言いつけることもできない。これなら一方的に恐喝される方が、よっぽどマシである。*1
世のブラック企業従業員が経営者に逆らえないのは、まさにこの心理のためだろう。
飲食店や中小企業の経営者には、従業員をひどい労働条件で働かせながら、たまーに飯をおごったり、自分の立身出世苦労話を浪花節チックに聞かせて「俺っていい経営者」と思ってたりする。とゆうか俺も新聞配達の店にいた当時そーいう目に遭った。ここで経営者が従業員に押しつけてくるのは、一方的搾取ではなくある種の共犯意識なのだ。だから文句がつけにくい。
わたしがうっかりホモレイプされる夢なんぞ見たのは、過去の職場の記憶などでの「自分はイヤなんだけど逆らえない関係」のメタファーなのかも知れない。
かつて明治時代から昭和前期、後発帝国主義国の日本が欧米列強の食い物にされないため近代化する過程では、こうした共犯意識の上下関係が必要悪とされたことは想像に難くない。とくに軍隊では。生き延びるための物資略奪や、機密保持のための捕虜処刑などのBC級戦犯行為は、どこの国の軍隊でもやってきたことだ。
そうした近代の過程に比べれば最初から裕福な時代に生きる自分らには、一緒に敵兵の屍肉を食ったとかの後ろめたい秘密を共有して結束していた人々を安易に現代の基準で責めることはできまい。
だが、今様のブラック企業悪徳商法が、こういう暗くウェットな共犯意識に免役のない人間を食い物にしているのも不快だ。
これを退けるものは「イヤなものはイヤだ」とはっきり言う個人の勇気しかない。わたしはネットワークビジネスの集会に連れ込まれたとき、それがなかった。おかげで10数年経ってもトラウマが残ってホモレイプされる夢なんか見てしまうのだ。

*1:付記:この手の話のいい例が藤子不二雄Aの『少年時代』で、都会から疎開してきた主人公がスイカ泥棒に誘われる話などだろう。ただしこの作品中では、そーやって下級生をイジメでた上級生が卒業時にあえて自分らを殴らせるという儀式の描写がある。つまり「お互い様」という自覚があった。現代のブラック企業経営者にはこれがない。

死刑囚は腹を切れ?

2009年に裁判員制度がはじまってから3年目を迎えた。そこで漠然と見えてきた限りでは、民間から徴用された裁判員は意外に厳罰傾向が強いらしい。
(まあ、裁判員には採用面接があるから、裁判員制度自体にも現行の死刑制度にも反対しない人だけが裁判員になるのは当たり前なのだが)
世の人権左翼には死刑廃止論が強いが、それでも日本では、死刑存続派が多数を占める。人権左翼ははっきり認めないといけない。これは保守権力者の意向ではない、大衆の感情だ。
なぜ日本では死刑存続の大衆世論が強いのだろうか? いっけん迂遠に思えるかも知れないが、わたしは、切腹の文化と関係あるのかも知れないと感じる。
戦前の日本人は何かとよく腹を切った。なぜかというと「世間に恥をさらしたら自分の命をもって償わないといけない」という認識があったからだ。
「重犯罪者の死刑は当然」という世論はこの意識と何か関係あるのではないか?
しかしながら『世界主要国価値観データブック』(同友館)で、25か国の自殺についての意識調査結果をみると、日本では自殺をまったく正当とする人間は2.4%と低く、自殺を禁じたカトリック信徒が多いはずのメキシコ(4.0%)やフランス(6.5%)の方が多い。逆に自殺をまったく否定する層は日本では45.8%だが、英仏独のようなEU諸国では20〜30%台だった。べつに日本人も、公式には自殺が良いこととは思っていないのだ。

刑罰からこぼれ落ちる感情

さて、公共の刑罰は個人の復讐心を国家権力が代行しているという図式がある。
しかしながら、わたしは一個人的には、よく殺人事件の被害者遺族の記者会見で「犯人には極刑を望みます」という言葉が出ると、なんだか違和感を覚えてしまう。
マスコミによって「善良な被害者」とされた人が堂々と国家権力による殺人を希望する発言をすることに、矛盾のような気持ち悪さを感じるのだ。
急いでつけ加えるが、凶悪犯罪の被害者遺族が、一個人として犯人に対し「ぶっ殺してやりたい!」と思う感情は大いに理解できる。だがそれが、マスコミによって、「感情を持った一個人」ではなく「正義の被害者遺族」という無個性の存在に塗り込められ、法律のシステムによって復讐感情が代行されると、何かがすり替わっているようですっきりしない。
かつて呉智英夫子は「死刑を廃止して仇討ちを復活させろ」と説いた。これなら、ことの是非はともかく、感情として納得できる。
また、かつて小林よしのりは「鋸引きを復活させろ」と説いた。鋸引きとはただの死刑ではない、公衆の面前で犯罪者の首を斬るというさらし者の刑だ。
わたしは、日本では、犯罪への抑止力になるのは善悪意識でも刑の怖さでもなく、結局「世間への恥の意識」しかないのではないかという気がしている。
以前、こんな話を書いた。昨今の少年院では派手な事件を起こした少年も簡単に反省するが、それは自分の親や身近な人間に迷惑を掛けたという意味で、なぜか被害者への謝罪の言葉が出てこないという証言だ。
罪とそれに対する罰というものは、本来は加害者と被害者の関係によって決まるはずだが、日本ではそれが意識されないとなると、犯罪抑止力は「そんなことをやったら世間の恥になりますよ」しかない。
となれば、死刑を公開にして醜くかっこ悪く死ぬ場面を大衆に見せるのが一番の抑止効果になるだろう。殺すのは人権上悪いって? よし、それでは重殺人犯は公開ホモレイプの刑というのはどうだろう! 宅間守も加藤智大も公衆の面前で犯されれば、もう絶対彼らのマネをしようという奴は出てこないのではないか?(笑)

その他のイヤ〜な思いつき

悪徳商法の話にかこつけて前々からの持論だが、振り込め詐欺の被害者というのは、結局のところ、騙されて喜んでいるとしか思えない。
子供や孫を自称する人間から金策の電話が掛かってくれば「自分は役立たずの年寄りではない、子供や孫の役に立つことができる」という気分が味わえる。この心理が自覚されない限り振り込め詐欺問題の根本は解決しない気がする。
多分、今の30代以下の人間の間では世に振り込め詐欺というものがあるという認知度は9割を超えていると思うが、逆にカモになる60代以上の人間では、認知度が多めに見積もって4割程度ではないのか。
しかしながら、今の30代以下の人間が60代以上になって振り込め詐欺の対象になる頃には、子供や孫のために何かしてやろうという意識より自分を優先する個人主義者が増えてるだろう。それ以前に「うちは子供も孫もいませんよ」が多数派か。

底辺の王とそのエサになる者

首都圏連続不審死事件の木嶋某に死刑判決が出た。当人は「殺害していません」と言い張っている。確かに彼女は、被害者を自分の手で刺したり首を絞めたりしていない。これは想像だが「練炭を置いて火を付けたら一酸化炭素中毒で勝手に死んだ。だから(自分が意志的に)殺したわけではない」と本気で思っているのではないか。
仮に彼女が本当に冤罪であったとしても、このタイプの女性は本当にいやだ。こういう「美人ではないが男遍歴自慢をしたがる女性」には心当たりがある。要は自分でも引っかけられる男だけを狙って引っかけている「底辺クラスの女王」である。
少し前、どこぞのステーキ屋の社長が、牛丼屋に来ると勝者の気分が味わえるとホザいていたのがツイッターで話題になった。ビル・ゲイツやかつてのロックフェラーやカーネギーのような本物の金持ちはそんなこと言わねえよ。それと同じだ。

教養というムダを廃したら残った物

某所で「団塊ジュニアガンダムしか金を使う対象がない」との意見を目にした。実際、我が同世代は難しい本を読んでるとか以前に、なんというか一般的な社会人としての教養が空洞化している気がする。
かつてなら、ちゃんと就職した奴なら職場の上司や取引先との付き合いで、高級車とか高級ブランドとかゴルフとか料亭とかワインとかの「社会人の教養」みたいなものを身につけさせられたはずだ(まあ、わたし自身もそれらに何ら魅力を感じないのだが……)
しかし70年代以降生まれの世代は、バブル期にはフリーターがもてはやされ、その後の90年代以降には正社員就職できない人が多数になる。
かくして「社会人の教養」継承の場に接する機会がなく、教養の基礎が漫画やアニメやゲームで止まったまま30代以上になってしまった大人が溢れている(別に漫画やアニメやゲームを貶める気はいっさいないが、プライベートの趣味と社交のための教養は別物だったはずだろう)。
ツイッターで大真面目に天下国家を論じている人が、まったく恥ずかしげもなく萌えアニメキャラのアイコンを使ってるのは、こういう事態の結果だろう。

嫌いなアイツは鏡に映った10年前の自分

今の日本で韓国や在日を嫌う人たちに「キムチは嫌いだが沢庵や納豆やぬか味噌は大好き」という人は果たしてどの程度いるのだろうか? 要は、韓国や在日にアジア的土着文化への自己嫌悪を見いだしているというオチではないのか。

王様はなんのため必要なのか

最近の自称保守主義者は「国益」を持ち出せば、なりふり構わぬ新自由主義政策でも電力会社でも何でも擁護できると思ってるらしいが、「国益」には現在しかない。保守というのは本来、過去から未来への文化継承ではないのか?
実利追求は伝統保守と両立しない。国益という名の実利主義を突き詰めれば「労働力にならない老人は殺してOK」「労働力以前の子供も将来に育成コストが回収できないなら殺してOK」となる。
そこまで国益国益って言うなら、うるさい隣国との商売に邪魔な靖国神社も廃棄して、税金で維持されてる天皇制も廃止すればいい。それこそ大幅に税金が浮くぜ。
靖国天皇制も何のために必要かと言えば、結局は現在の国益ではなく、それを維持しようとした過去の世代への敬意を忘れないため、「過去の日本に対する連続性を維持したい」という精神論だからね。
保守思想は実利主義ではなく精神論で上等なのだ。