電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

死刑囚は腹を切れ?

2009年に裁判員制度がはじまってから3年目を迎えた。そこで漠然と見えてきた限りでは、民間から徴用された裁判員は意外に厳罰傾向が強いらしい。
(まあ、裁判員には採用面接があるから、裁判員制度自体にも現行の死刑制度にも反対しない人だけが裁判員になるのは当たり前なのだが)
世の人権左翼には死刑廃止論が強いが、それでも日本では、死刑存続派が多数を占める。人権左翼ははっきり認めないといけない。これは保守権力者の意向ではない、大衆の感情だ。
なぜ日本では死刑存続の大衆世論が強いのだろうか? いっけん迂遠に思えるかも知れないが、わたしは、切腹の文化と関係あるのかも知れないと感じる。
戦前の日本人は何かとよく腹を切った。なぜかというと「世間に恥をさらしたら自分の命をもって償わないといけない」という認識があったからだ。
「重犯罪者の死刑は当然」という世論はこの意識と何か関係あるのではないか?
しかしながら『世界主要国価値観データブック』(同友館)で、25か国の自殺についての意識調査結果をみると、日本では自殺をまったく正当とする人間は2.4%と低く、自殺を禁じたカトリック信徒が多いはずのメキシコ(4.0%)やフランス(6.5%)の方が多い。逆に自殺をまったく否定する層は日本では45.8%だが、英仏独のようなEU諸国では20〜30%台だった。べつに日本人も、公式には自殺が良いこととは思っていないのだ。

刑罰からこぼれ落ちる感情

さて、公共の刑罰は個人の復讐心を国家権力が代行しているという図式がある。
しかしながら、わたしは一個人的には、よく殺人事件の被害者遺族の記者会見で「犯人には極刑を望みます」という言葉が出ると、なんだか違和感を覚えてしまう。
マスコミによって「善良な被害者」とされた人が堂々と国家権力による殺人を希望する発言をすることに、矛盾のような気持ち悪さを感じるのだ。
急いでつけ加えるが、凶悪犯罪の被害者遺族が、一個人として犯人に対し「ぶっ殺してやりたい!」と思う感情は大いに理解できる。だがそれが、マスコミによって、「感情を持った一個人」ではなく「正義の被害者遺族」という無個性の存在に塗り込められ、法律のシステムによって復讐感情が代行されると、何かがすり替わっているようですっきりしない。
かつて呉智英夫子は「死刑を廃止して仇討ちを復活させろ」と説いた。これなら、ことの是非はともかく、感情として納得できる。
また、かつて小林よしのりは「鋸引きを復活させろ」と説いた。鋸引きとはただの死刑ではない、公衆の面前で犯罪者の首を斬るというさらし者の刑だ。
わたしは、日本では、犯罪への抑止力になるのは善悪意識でも刑の怖さでもなく、結局「世間への恥の意識」しかないのではないかという気がしている。
以前、こんな話を書いた。昨今の少年院では派手な事件を起こした少年も簡単に反省するが、それは自分の親や身近な人間に迷惑を掛けたという意味で、なぜか被害者への謝罪の言葉が出てこないという証言だ。
罪とそれに対する罰というものは、本来は加害者と被害者の関係によって決まるはずだが、日本ではそれが意識されないとなると、犯罪抑止力は「そんなことをやったら世間の恥になりますよ」しかない。
となれば、死刑を公開にして醜くかっこ悪く死ぬ場面を大衆に見せるのが一番の抑止効果になるだろう。殺すのは人権上悪いって? よし、それでは重殺人犯は公開ホモレイプの刑というのはどうだろう! 宅間守も加藤智大も公衆の面前で犯されれば、もう絶対彼らのマネをしようという奴は出てこないのではないか?(笑)