電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「良い時代」なんてない

・江戸時代
 あくせくしてなかった / 身分社会で出世の場が少ない・医療が未熟で寿命が短い
・明治前期
 文明開化が進んだ / 富国強兵のため徴兵や就学や納税などの国民の義務が増えた
・明治後期
 欧米と対等の軍事大国になった / 義務がますます増えて女工哀史足尾鉱毒
・大正
 薩長藩閥が力を失い民主主義が進んだ / 政治腐敗と大資本による搾取も増大
・昭和前期
 戦争で日本の支配地が増えた / 軍人支配で不自由・最後には生活物資が不足
・昭和中期
 平和になり経済成長が進行 / 公害や交通事故が増えた・産業のない地方が衰退
・昭和後期
 豊かになり消費社会が完成 / 高級ブランドを持たねば人にあらずのバブル価値観
・平成
 再びあくせくしなくなった / 長期不況で少子高齢化で経済が停滞

彼は昔の彼にあらず

渡辺京二『逝きし世の面影』(isbn:4582765521)が静かにロングセラーだそうで。
この本の解説自体はほかのブロガーに譲るが、もし本書の内容を「それ見ろ昔の日本民族はこんなに立派だったんだ!」という自画自賛の材料に使おうとする者がいるなら、そいつの目はブラックホールより大きな節穴だ。そんな野郎は典型的な、愛国者のつもりのキモい自己愛バカである。
筆者自身も述べているが、本書中のような明治維新以前の日本人の美徳はほとんど、近代的な価値観が普及していない当時の環境ゆえのものであって、現代日本からすれば、ほぼ完全に滅び去った過去の風景だ。
そして上記のような主張をしたがる自己愛的保守主義者には都合悪いことに、当時の日本には専業主婦など存在せず(みんな農民や漁民や個人経営の商店などの家業があったんだから当たり前)、女性は平然と酒や煙草を嗜むものだったこともしっかり記されている。現代の保守的家族像なるものも、限られた時代環境の産物に過ぎない。
翻って言えば、戦後70年の歴史で5年間しかなかったバブル時代が永遠に続くべき基準とか思ってる竹中平蔵以下の新自由主義者は、居酒屋で学生運動の自慢話する全共闘オヤヂと同レベル、いやチョンマゲや帯刀の復活論者と同レベルである。
人間は皆ある日いきなり空中から生まれてきたわけでもなく、父母がいて、さらに祖父母がいてその祖父母……という連続性のもとにある。しかし、祖父の手柄は自分の手柄ではない。自分の手柄も祖父の手柄ではない(祖父や親の財力のおかげで手柄を立てられた場合はありえるか。でも自分がすでに亡い祖父や親の生前に寄与する力はない)。
昔と今の「良いとこ取り」は無理なのだ。