電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

灰と星

先日、数年ぶりに年賀状というものを書き、今回はついでにもう10数年も逢ってない郷里の中高生時代の友人にも書いてみた。本年の初め、親父の三回忌で九州を訪れる機会があった時に、むかし通ってた中学校の周辺をほっつき歩いたりなんかしたためである。

普段は罰当たりにもすっかり忘れきってるが、時折、親父が死んで灰になった時のことを思い返す。灰になってしまった生命はどうなるんだろうか……無に帰すんだろうか? わたしの親父は魚釣りが生涯の趣味で、最期は散骨を望んでいた(実現しなかったが)、いっぱい魚を獲って食ってきたから、最期は自分が魚の餌になるのが相応しいと考えていただろう。まさに因果応報、食物連鎖で輪廻転生、って感じ、悪くないとは思う。

10数年前、いとうせいこうの『解体屋外伝』という小説を読んだことがある。
洗脳者と脱洗脳者のサイコバトルものなのだが、クライマックス近くで、主人公が敵から、強烈な「無」のイメージを与えられ頭を真っ白にされかける場面がある。そこで主人公は「何も無いのではない、『無』が存在しているのだ」と認識を切り替えて思考のホワイトアウトを回避するわけだが――なんだそりゃ、ただの言葉遊びじゃねえのか? と思ったものだった。

厳密に考えると、この世に「無」なんてものはなく、「無」というのも人間が作った便宜的な概念に過ぎないのではないか、と思う。
例えばだ、宇宙の本当に何も無いように思える空間にも、顕微鏡なみの視点でよぉーく眼を凝らせば、人間には認識できないだけでミクロな極小の塵が漂ってる筈で、それは遠い遠い恒星からの熱と光を受けて、微かながらもゆらゆら動いてるかも知れない。

つまり、空間に存在しているものが、際限なくエントロピーが増大して「薄れる」とか「紛れる」ということはあっても、本当に完全に何も無い真空状態、一切が停止した状態になるなんてことは、そうそうあり得ないんじゃないだろうか、と。

流星でも飛んできたか神が気まぐれを起こしたか、幾つかの偶然的要素が重なって、宇宙の塵が凝縮して地球もでき、それが更に凝縮して生命もできて、そんな塵の塊から枝分かれしてわたしとかもできた。で、わたしが死ぬと、いずれその塵を再利用してまた何か別のものができるのだろう。

……なんだかまたわけのわからない話になってしまった。まあいいか。

年の暮れで仕事も終わったし、夜歩くと星がきれいなもんだから空を見上げたりするんで、こんなことを考える。
そりゃ毎日、即物的に俗世間的なこと――悪徳商法軽急便やらスーパーフリー建国義勇軍やら、ナチス前夜のドイツやら、炭鉱跡地の衰退やら、鬱症になった旧友のことやら、今日の財布と晩ごはんやらについてばかり考えてても、気が滅入るってもんだからなあ。

さて、年越し蕎麦はどこで買おうか。