電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

酒、煙草、セブン12話は大人になってから

と、そんなことを考えてたら、ちょうど『映画秘宝最新号の、特集「闇に葬られた日本映画の謎」で、『ウルトラセブン』のスペル星人だの、『怪奇大作戦』狂気人間(そういやちょうど今『モーニング』でやってる『ブラックジャックによろしく』の内容と大いに問題点がかぶる)だのの話がされてた。
同記事中『封印作品の謎』(大田出版)の安藤健二氏がインタビュに答えて、例え問題ある作品でも一切観られなくしてしまう問題隠蔽気質というのはどうか、また一部でファンの側自身が「苦情に甘んじてきた先人の苦労を無にするな」と自主規制的態度に走ることへの違和感を語っていて、基本的には大いに同感だった。
だがしかし、昨今のネットの状況見てると、それでも受け手の側の問題ってのはあるんじゃないのかなあ、とか思ってしまうのだ。実際、怪獣図鑑スペル星人が「ひばく星人」と書かれてりゃ(大伴冒司は「吸血宇宙人」と書いた)、被爆者をいじめるバカなガキはいるのである。差別が大好きな人間はやはり世になくならない以上、いい歳して同じようなことをしでかすバカは尽きまい。
ま、わたしは究極的には、「差別表現は悪人の自白」「言論の自由市場で晒して淘汰されるのを待て」という浅羽通明氏流の考え方に立つが、それも言論の自由が保証されてる枠内で、最終的には穏当な最大公約数ラインに行き着く目算があればの話、最近は、その辺の歯止めさえ効かなくなってるように感じる面も無きにしもあらず。
かつて80年代、セブン12話は一部のコアなおたくの間ではかなり「ネタ」として消費されたが、それはそれを「ネタ」として扱えるだけの民度のある人間の間でのみ通じた話だ。ネタで敢えてやってる「差別ごっこ」が現象面では傍目には本当にただの差別その物としか受け取られず、そのせいで結局表現規制を招くなどとなったら遺憾だが、元も子もない。
それこそサイゾーM2対談の最後でも、それをすり抜けるスキルの獲得のためという意味も含め、敢えてスパルタ教育的なシゴきの復活の必要性を説きつつ、しかし今の世は、そうして敢えてやってる「ネタ」が大真面目に児童虐待だとか人権蹂躙だとか「ベタ」に批判されかねないとボヤいてて、これももっともだとは感じたが、「ネタ」で差別抑圧も良いのだとなれば、便乗して本気で自己の快楽のため差別抑圧(人間には食欲や性欲と同様に差別欲の快楽という物が確実にある!)奴だって出てくるだろう、という辺りも視野に入れねばなるまいとも思える。
こう書くと一見、前半の話と矛盾するようだが、要するに「人間には残酷な部分もある」ということを、一辺倒にならず、程よく自覚的に意識できるようにならないか、ということである。「しょせん人間は残酷なんだ」一辺倒で、そのまま、じゃあ差別抑圧一切オッケーのヒニリズムに行き着くのもまた厨房の思考。