電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

萌えも薄幸も吹き飛ばす乾いたニヒリズム

近年、アフリカ、アジア、中東などの紛争地域でのチャイルド・ソルジャー、いわゆる子ども兵士が深刻な問題として注目を集めている。
いうまでなく、現実のそれらはただただ悲惨なだけである。んが、日本の萌え産業は、それさえ萌え商品にする勢いで、薄幸なちっさい美少女兵士を描いた『GUNSLINGER GIRL』だの『鋼鉄の少女たち』だのといった作品が、そこそこ人気を博していたりする。
こういうものに萌える心性というのは、なんというか、島崎藤村田山花袋自然主義私小説が題材にする「罪の告白」が欺瞞的くさいのと同じように気持ち悪い。
GUNSLINGER GIRL』では、保護者役には絶対逆らわないよう精神刷り込みされた少女兵士を手先に使っている、父親役の男(ま、読者が自己投影する位置の登場人物ね)が、ああ自分は何と罪深いことをしているのか云々、と苦悩して見せたりするわけだが、この男キャラも、それに共感する読者も、ひたすら白々しいだけである。
要するに、自分で「薄幸な少女」を作っておいて、それが自分に本質的否定をつきつけることはないという保身を前提とした上で、半端なヒューマニズムで少女に同情して感傷に浸ってるんだから、キモチワルイ自己愛にしか見えないのである。
自ら少女に手を出すやら懸想やらしておいて、その「罪の告白」を文学のネタにする自然主義私小説マッチポンプぶりと同様ではないか。
しかも、この手の「薄幸子ども兵士萌え」は、下手すっと「自分はタダのロリコンではなく、世界の残酷な現実をテーマにしている」などと、何か自分はご大層な存在であるかのようにスノッブな錯覚をしてたりするからタチが悪い。
――と来たところで、一見してこのテのタイプの作品かと思われながら、意外に好印象を持ったのが、三部けいカミヤドリ』(角川書店)だった。
物語の舞台は、カミヤドリなる奇病が蔓延した世界。その感染者は、理性を失い、怪物と化して他の人間を襲う。根本治療法はなく、カミヤドリ感染者は殺すしかない、という、救いのない残酷な設定である。
主人公ジラルドはカミヤドリ感染者を狩り出して処刑する特殊公務員で、ヴィヴィという少女を相方としている。タフガイ男と無表情な少女のコンビ、まあ、お決まりパターンだ。
二人は、カミヤドリ感染者であれば、子供であろうと元同僚であろうと殺す。ジラルドはたまーに内省するが、ヴィヴィは一切内面が描写されない、といっても、人間性の壊れた殺人鬼でもない、通りすがりの行き倒れを助けたりもする。しかし、自然の摂理に忠実に、命運の尽きた者には黙って引導を渡すのである。
いわば「運が悪けりゃ死ぬだけさ」「生きてるのはたまたまラッキイ」という雰囲気が漂っているが、別に、極端にシニカルなハードボイルドを気取っている作風でもなく、世界の残酷さをゴロンとそのまま描こうとしているようだ。この感覚は、岡本喜八山田風太郎水木しげるやなどが持つ明るいニヒリズムに似ている。
ヴィヴィは親もなく、言葉もまともに話せない。真面目に考えれば可哀想な子のはずだが、まったく薄幸そうには描かれず、ひたすらタフで下品な野生児だ。彼女はある意味、自然神の化身のような聖少女とも言えそうなのだが、宮崎駿ヒロインのような、ロリコン受けしそうな美化が一切無く、ただただ不潔な白痴娘扱いである。何より、ジラルドとヴィヴィの間には最後まで恋愛感情みたいなものは一切描かれない。
お陰でこの作品、下手な感傷のつけいるスキがないが、それゆえ人気がなさそうだ。しかし、弱者への憐憫にかこつけた自己憐憫に陥るような人為的ヒューマニズムを超えて、世界は本来汚くて残酷だが、それゆえ美しい、ということを描こうとしているように見える。
筆者の三部こと瓦敬助(元・荒木飛呂彦のアシスタントだという)は、よくネパールに行ってるそうだが、現実の途上国の、不潔な環境と、我々先進国の基準では薄幸でも案外のほほんとタフに生きる人間の姿を見ていればこそ、こんな感覚が身につくのかもしれない。