電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

真夏の死

70年前の7月8日というのは、とある男の命日だった。*1
スペイン内戦当時の人民戦線側の国際旅団で記録に残るただ一人の日本人義勇兵、ジャック白井。正確な生年月日はまったく不明、推定1900年頃、つまりおそらく享年37歳。
要するに今のわたしと同年ぐらいのはずである。
『オリーブの墓標』石垣綾子立風書房)や、川成洋、逢坂剛らの他の書物によると、白井は日本では極貧の食いつめ者で、渡米してコックになったが、そのうち1930年代の大恐慌にぶつかって労働運動に関わり、さらにスペイン義勇兵に参加したという。
スペイン内戦は、1936年7月、正当な選挙で発足した人民戦線政権に対し、フランコ将軍らがクーデターを起こしたことから勃発した。フランコ側は独伊の支援を受けてたので圧倒的だったが、ほどなく、国際共産党コミンテルンの呼びかけで人民戦線政権支援の国際義勇兵部隊が発足する。
で、共産党プロパガンダを能天気に信じる純粋まっすぐ君や、左翼ではないが自発的な正義感で身を投じた理想主義者、独伊のナチズム・ファシズム政権からの逃亡者、あるいはただのゴロツキなどが義勇兵にはゾロゾロ集まった。
白井もその一人だった。彼は当初、その料理の腕を買われて炊事兵にされたが、白井の口癖は「俺は飯を作りに来たんじゃない。ファシストを撃ち殺しに来たんだ」だったという。
1937年7月、ひまわりが咲き乱れるマドリード近郊のブルネテでは、連日30度を越す猛暑の中で激戦が続いた。白井は、敵の機銃掃射が続く中、仲間の救援が必要になり「俺が行こう」と言って塹壕から飛び出し、その瞬間に首を射たれ、一撃で死亡。
オリーブの墓標が建てられた筈の場所は、ただの索漠たる荒野となっているという。
――このおっさんの死に方は、わたしは、この上なく前のめりな「真夏の死」というやつを絵に描いて額縁に入れて美術館に飾ったような死に方と定義している。
不謹慎な言い方をあえてすれば、祖国では無用者が、異国では英雄として死んだのだから、最高の死に方ではないか。
まあ、現在のネット世論の見方では、白井もただのバカなサヨク、となるのだろう。
実際、白井は当時のスターリン万歳の共産党の公式見解をまるで疑わなかったらしい。
だが、わたしは、白井がそれぐらい頭の悪い人間だった点を踏まえ、むしろ、白井を、主義ではなく義侠心の徒と見なす。
多くの義勇兵たちは、野武士にいじめられる百姓を救う七人の侍のように、スペインの民衆を救うという利他主義と自己犠牲のために、結集し、戦い、死んだ。
(今ではこういう左翼ロマンチシズムを冷笑しかしない人のほうが多数だろうが、大東亜戦争インドネシア独立などのため白人列強国と戦った日本兵とどう違う?)
少なくとも1937年には、連帯すべき「世界」「公」があった。当時の左翼は、間違っても「私翼」「個翼」ではなく「公翼」だったのだ。
――もっとも、『スペインを知るための60章』野々山真輝帆(明石書店)などを読むと、今では当のスペイン国民自身は、内戦を忘れたがっているらしい。
ヘミングウェイオーウェルをはじめとする外国から来た義勇兵たちの活躍は、今日も”スペインの外では”語り草となっているが、当事国民には、内戦はさっさと忘れたい痛恨であるようだ。何しろ親子兄弟が敵味方で殺しあった話だって多いというのだから。
スペイン内戦は、義勇兵たちの(半ば勘違いな)活躍も虚しく、人民戦線の敗北に終わる。
(敗軍となった人民戦線支持者の多くは、ピレネー山脈を越えフランスへ逃亡した。彼らはその後、ナチス占領下のフランスで抵抗運動の最前線に立ったようだ。フランス人のピエール・ヴィラールが書いた『スペイン内戦』(白水社クセジュ文庫)によれば、1944年8月のパリ解放時、市庁舎に集結したレジスタンス軍のハーフトラックには、1台1台に「マドリード」「バルセロナ」「ブルネテ」「グアダラハラ」「ゲルニカ」等々と、スペイン内戦にまつわる痛恨の名前が記されていたという)
こう書くと皮肉や嫌味にしかならんが、白井の死は「何にもならなかった」あたりまで含め、最高の「真夏の死」かも知れない。
なぜなら、青春とは無償の行為を指すからだ。
で、青春など遠く過ぎたわたしは、保身と日銭のことだけ考えて今日も生きている。

*1:あ、悪りぃ、他の資料じゃ7月11日て書いてあった