電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「他人同士でない国」の無自覚な保護の得

だが、してみると、日本の下流化、貧困など、まだ甘いのかも知れない(まあ、ただ危機感が足りないだけなのかも知れないが)。
論座』1月号で、町山智浩は「日米よ、徴兵制度を復活させよ」と書いた。
アサヒ系の雑誌でこの発言は注目すべきだが、要するに、アメリカでは、いまや軍を支えているのはほかに就職先のない下流層で、その犠牲の上に、苦労知らずの連中が威勢の良いタカ派発言を吹いている、金持ちも貧乏人も平等に戦争の味を経験する方法は徴兵制だろ、という話である。
ウェイン町山のこの発言と、偽悪的に「戦争待望」を主張した赤木智弘は似ていると思う人がいるかも知れないが、両者は根本から違う。
赤木君は「戦争になったら偉そうぶってる連中も軍隊で殴られるだろうからザマミロだ」という空想をただ言ってみただけではないかと思う。
しかし町山は、人間は、自分の大事な身内を守る目的で、必要とあれば、自らが銃を持って戦わなければおかしいはずだぞ、と述べているのだ。
町山は、その昔『別冊宝島 裸の自衛隊』(1991年刊行)の編集に関わった時は、本来文弱のオタクだけどカッコいい戦争映画とかは好きだから、取材のため自衛隊の訓練に参加して痛い目にあった、というようなことも自ら吐露している。
また現在の町山は米国在住だが、そもそも彼は、日本にいたときも、渡米後も身分は異邦人だった。平穏な日本で30歳過ぎて親元住まいのフリーターとは(望んでも自立さえできない、という初期条件の差も確かにあるだろうが)、身を置いてる環境からして覚悟が違うというべきだろう。
先日も書いたが、自分も米国に渡った友人がいて、彼によると、ニューヨークでは、周囲が赤の他人同士の国ゆえ、ある一方では非常によそ者には厳しい土地だが、逆に一方ではボランティア的な相互扶助が発達していると聞いている。
彼は商社員などの長期在留日系人コミュニティとのコネがないばかりに、アパートを借りることから仕事探しから日々の買い物先をどこにするかまで、右も左もわからぬ異人相手に相当苦労したようだが、中にはボランティア的に異邦人にも好意的に接してくれる人もいる(その人種民族もまた雑多)から助かってる、という話をよく述べる。
裏返せば、普通に生きてるつもりの日本人は、普通に日本語が通じて向こうからはいはいと要望を聞いてくれる不動産屋だの、窓口がわからなければすぐ教えてくれる役所だの、いかに「日本人だから」というただそんだけで日本国の恩恵を受けてたかがわかる。
だが、これは、同じ日本人同士だからお互い話が通じると思えている、というだけで、本当に身内でもなんでもない見ず知らずのよそ者を善意で助けてくれるという文化ではあるまい。
その渡米した友人と共通の友人である畏友ばくはつ五郎氏とも、その辺の話になったことがある。
隣にいる人間が困ってれば助ける、なぜなら、お互い様だから(ここが重要、「情けは人のためならず」の本来の意味だ)、という考えが今の日本で広まらないということは、共同体への危機意識もまだまだ、ということなのだろうか。
これ、放っとけばヤバいぞ。
だって、黙ってりゃ助けてもらえる、などということはありえないのだから。
「権利は、あたかも真理のようにあらかじめ存在するものではなく、闘い取るものである。そして、闘うことを止めれば権利は自動的に消失する。」宮崎学『突破者』