電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日曜朝の教育効果ばつぐんだ

仮面ライダー鎧武』が2クール目に入って以降、急激に面白く感じる。が、当方と同じような中年特撮オタクは古典的勧善懲悪と強いヒーローを愛する保守的価値観の人間が多く、虚淵玄みたいな変わり者の脚本家にはアンチが根強いらしい。しょうがねえなあ。

「ウィザード」がつまらなかったワケ

そもそも平成ライダーの醍醐味は、ショッカーのようなわかりやすい「悪」が設定できない現代を反映するように、単純な善悪図式を解体し、いわば「複数の正義の衝突」を描いてた点だと思う。『電王』や『W』や『オーズ』では、敵は人間社会の内部(普通の人々の悪意や欲求)から発生する物として描かれ、『アギト』や『555』や『キバ』ではライダー自身も敵の怪人と同じく人間社会から見れば異形の異物として描かれ、『龍騎』や『ブレイド』では、異なる動機を持った個人としてのライダー同士の戦いが描かれた。
が、前作『仮面ライダーウィザード』は、シリーズ最低じゃねえかと思えるほどつまらなかった。せっかく主人公の晴人を「魔法使い」という普通の人間から外れた存在にしておきながら、周囲は晴人に好意的な人間ばかりで、本質的に衝突する価値観の人間が出てこない(警察幹部の木崎はデレて味方になるのが早すぎだ)。敵の怪人は人を絶望に突き落とすのが目的で、毎回のゲストキャラは単なる可哀相な被害者役、終盤で登場した敵ボス(白い魔法使い)は目的もやることも『鋼の錬金術師』の劣化パクリにしか見えなかった。

どう使う? (虚淵玄という)禁断の果実

で、『鎧武』である。脚本が虚淵というので、さすがに日曜の朝から『鬼哭街』や『Fate/ZERO』みたいな真っ暗な話はないだろうとは思いつつも戦々恐々としてたら、序盤で主人公の紘汰がライダーベルトを手に入れた直後の描写は面白かった。
元より「これまでの自分と違う存在に変身したい」と思っていた紘汰は、最初の戦闘を切り抜けた後、大はしゃぎで一人で部屋内で変身して悦に入ったり、バイト先でも変身して仕事しようとするw 阿呆か!
だが、もし超越的な力を手にいればまずは大はしゃぎするのが男の子ってもんじゃないのか? 変身ヒーロー物でも巨大ロボット物でも、最初に主人公がうっかり事件に巻き込まれて変身したりロボットに乗って苦悩するパターンは多いが、むしろ舞い上がってしまう主人公ってのが前々から見たいと前から思っていたので、ここは納得である。
虚淵といえば、『Fate/ZERO』といい『PSYCHO-PASS』といい、やたらハードでシリアスな大人の男の世界(を気取った中二病世界観?)ばかり描いてる印象だったけど、今回はいいバランスで等身大じゃないか、と感じた。
が、1クール目の展開は、主人公らがポケモンみたいにモンスターを操って戦わせたり仮面ライダーに変身して何をやるかと言えば、えんえん単なる若者グループ同士の抗争ときてる。「等身大」や「単純な善悪図式の解体」を狙いすぎて却ってすべってないか……と、思ってたら、13話あたりから話が急変。
主人公の紘汰や対立グループの戒斗らは、彼らが住む町を支配する巨大企業ユグドラシル・コーポレーションの大人たちにまんまと踊らされて、怪人やライダーを生みだす果実ロックシードの研究材料にされていたと判明。
ギャグ担当と思われていた初瀬&城乃内のコンビの初瀬はライダーベルトを失ってもなお力に固執するうちに怪人化して殺され、かつて『龍騎』で軽いノリで金のためにライダーになりながら非業の最期を迎えた佐野以来のトラウマキャラに。
さらに、序盤で紘汰が最初に倒した怪人の正体は、初瀬と同じように無自覚に怪人に変身してしまった紘汰の友人だった事実が明らかに。主人公のライダーが明確に「人間が変身した物」を殺すのは『555』以来となる。
うっかり食っちまった甘〜い果実は、とんだ毒入りだったというわけだ、こいつは怖い。

「錠前ディーラー シド」の怖さ

そんな『鎧武』で、わたしが俄然注目するキャラクターが、目先の刺激や力を欲しがる若者たちに怪人やライダーを生みだす果実ロックシードを売りつけてきた悪徳商人・シドだ。
すでに多くの人が指摘してるだろうが、シドは同じく虚淵脚本の『まどか☆マギカ』でのキュゥべえによく似ている。が、キュゥべえが世界の理不尽の象徴みたいなひどく抽象的な存在なのに対し、シドは波岡一喜のドスの効いた演技もあって嫌なリアルさが濃厚だ。
平成ライダーシリーズはショッカーのような「わかりやすい巨悪」を解体した結果、大物の悪役と言えば、『アギト』での人類に立ちふさがる神・オーヴァーロードのような抽象的な存在か、『龍騎』での凶悪殺人犯・浅倉のような単なる一個人になっているが、シドはリアルな実在感と「若者の壁となる大人」という象徴性を合わせ持っている。
「若者の壁となる大人」キャラといえば、古くは『巨人の星』の親父・星一徹だの、ファーストガンダムでのランバ・ラルだの、強い家父長的男性的ポリシーの持ち主で、主人公の若者はそれを実力で物理的に戦って倒すという図式だった。
だが、現実世界に存在する「若者の壁となる大人」ってのは、そんなわかりやすいものではない。ブラック企業の経営者のようなもので、明確なポリシーもなく利益と打算を動機とし、直接的な武力など使わず、自分の身は安全圏に置きながら、言葉巧みに人を利用して生き延びようとする……そういう連中だ。甘言で若者を唆して競わせ、うまく利益は吸い取って用が済めばポイ捨てするシドの姿は、ひどく意地悪くうがった見方をすれば、どこぞのアイドルプロデューサーのようにも見えなくない。
ところで、『鎧武』の劇中で紘汰はシドに騙されたと言い、『まどか☆マギカ』でも主人公らはキュゥべえに騙されたと言うが、正確には彼らはウソは言っていない。ただ、若者や少女に目先の刺激や強大な力をちらつかせて誘惑する一方、その「代償」は一言も語っていないだけだ……じつはこれ、わたしが過去長年えんえんしつこく非難してきたネットワークビジネスMLM勧誘の手口とまったく同じなのである!
奴らは暴力的な強制など説かない、甘言で若者の味方のように迫り、むしろ「あなたの願望を叶えましょう」なんて言ってくる。だからこそタチが悪いのだ。

余談1

じつを言うと、かつて当方の虚淵評価は低かった。
虚淵初期の代表作『吸血殲鬼ヴェドゴニア』は、「エロゲーにしては」車やバイクや銃器やバトルの描写が細かく内容もハードボイルドなんて言われたけど、要は没個性的な主人公が戦いに巻き込まれてヒロインに助けられてるだけの女々しい話で、ちっとも「男の世界」らしく見えないという感想だった。
商売柄、銃やバトルなど自分の趣味と一般的ギャルゲー要素を折衷しないといけなかったにしても、登場人物がゴツい敵とヒロインしかいないというのはひどく人間観の幅が狭く、せめて主人公の惣太に同性の友人キャラでもいたら少しは好感が持てたのに、と思った。
Fate/ZERO』でも主人公の切嗣はヒロインに助けられてるだけの女々しい奴にしか見えなかった。が、征服王イスカンダルとウェイバーの主従コンビは非常に良かった。
続けて『PSYCHO-PASS』と『鎧武』を見て実感した、あ、虚淵って(エロゲーシナリオライター出身なのに!)男女の関係より男同士の主従や戦友的絆やライバルとかのホモソーシャル関係を描く方が俄然うまい作家じゃないか、とw 思えば『まどか☆マギカ』も男の入る隙がない女子ホモソーシャルの世界だからうまくいったのかも知れない。

余談2

ここ数年、旧作ヒーローの再利用に力を入れてる東映は、今度はついに「昭和ライダー平成ライダー」をやるらしい。旧作ヒーロー再登場の先鞭となった『ディケイド』では昭和ライダーの扱いがひどいとオールドファンから不満が出まくっていた。
しかしである、わたし自身40歳過ぎのオールド特撮オタクながら「平成のライダーは邪道」という意見はぴんと来ない。
東映白倉伸一郎プロデューサーは『中央公論2012年8月号で、仮面ライダーを含む石ノ森章太郎ヒーローの特徴として「人間と非人間の中間的存在」「同族と戦う(敵は同じ技術で作られた怪人)」「父殺し(自分の造物主と戦う)」という三点を挙げた。これは、『555』あたりが良い例だが、おおむね平成ライダーシリーズにも継がれている。
そもそも、1980年代当時に雑誌の『宇宙船』あたりで高年齢の特撮ファンによって『イナズマンF』みたいなマイナーな70年代特撮作品や、仮面ライダーをはじめとする石ノ森章太郎原作ヒーローが再評価されたのも、単純な勧善懲悪図式の解体、ヒーロー自身が敵の怪人と同じく人間社会から外れた存在であるという正義の相対化が理由ではなかったか?
さらに、ライダー同士が戦うというコンセプトは石ノ森章太郎原作の初代『仮面ライダー』の中に既にあるし、TVシリーズでも『仮面ライダーV3』の後半、ライダーマンは正義も何も関係なく私的な復讐が動機で戦うヒーローとして登場し、V3と対立するうちに信頼関係が芽生えるという展開だった、なんだよ平成ライダーのパターンと同じじゃないか。