電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ネトウヨが耳をふさぎたいお言葉

「我国の新領土における土民、新附の民に対する統治官憲の態度は、はなはだしく侮べつ的圧迫的なるものあるやに思はれ、統治上の根本問題なりと思う」(1931年1月)
昭和天皇語録』(講談社学術文庫)20p

「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」(1940年夏)
(『昭和天皇かく語りき』(河出文庫 / isbn:4309409415)118p

憲法を守るということについては、戦前も戦後も同じであります」(1986年4月)
(『昭和天皇かく語りき』(河出文庫)379p

あと、これは昭和天皇ではないが、海軍の軍令部総長を務めた伏見宮博恭王(皇族の軍人では閑院宮載仁親王とともに最高位)が、盧溝橋事件の直前の1937年9月に上奏した発言。

日清・日露の役の用兵には大義名分が備っておりました、しかるにその後屡次の大陸出兵には次第に大義名分がくずれてまいりました。特に満州事変以来全く名分のたたぬ用兵に堕した感があります。今回の北支出兵の如きは如何に考えましても大義名分が立ちませぬ。
(『昭和天皇発言記録集成(上)』中尾裕次(芙蓉書房出版)372p

ただし、戦後のリベラル派がよく言う「昭和天皇は一貫して戦争に反対だった」という説も不完全だったりする。
たとえば、1942年6月にドイツ軍が北アフリカのトブルク攻略に成功しかけたときは、天皇みずから「総統に対し親電をうっては如何」と発言(『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)146p)。日米開戦後には陸海軍の行動に具体的な指示もしており、アッツ島が玉砕したあとの1943年6月には「なんとかしてどこかの正面で米軍を叩きつけることはできぬか」とも発言している(『昭和天皇語録』(講談社学術文庫156p)。まあ「大元帥」なのだからこれぐらい言うのは当然といえるかも知れないが。
ただし、昭和天皇は開戦に反対できなかった理由について「我が国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない。」と述べている(『昭和天皇かく語りき』(河出文庫)379p)。
つまり、軍人はどうあれ昭和天皇自身は、大日本帝国憲法体制を英国と同様の立憲君主による議会制民主主義と認識していた。逆に言えば、明治憲法を復活させさえすれば、反権力的なブサヨクをいっさい黙らせて強権的な政治ができると思い込むのも誤りだ。
以前も述べたが、大正時代にもリベラル派が「護憲運動」というものを起こしている。戦後との比較で明治憲法は権威的、強圧的と思い込まれているが、戦前にはむしろ明治憲法藩閥や軍の独裁を制限し、議会制民主主義を保証するものとして認識されていた。まさに2015年現在の状況をふり返るに、戦前と戦後というのは案外そんなに違わないのかも知れない。