電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ぼくのかんがえたさいきょうの「宮藤官九郎脚本のゴジラ」

オールド特撮オタクとしては、庵野秀明ゴジラの新作を撮ると聞いたときは少なからず期待した。そのとき脳裏をよぎったのは、若い頃の庵野らが1980年代当時に製作した『八岐大蛇の逆襲』とか『帰ってきたウルトラマン』のイメージだったのだが、劇場で予告編を見た限りでは何とも言いがたい……。
さて、数年前、Twitterでよくある大喜利的なタグで「こんな新作ゴジラはいやだ」というネタがあり、そのなかで「宮藤官九郎脚本のゴジラ」というものが挙がっていた記憶がある。しかし実際、自分はふと一瞬「クドカンゴジラ、案外と有りかも知れない」と思った。
おい待て、石を投げるな! 俺が考えたのは「怪獣災害」に直面して、怪獣の駆除やら人命救助やらに従事する特殊公務員にスポットを当て、『木更津キャッツアイ』と『海猿』をアウフヘーベンしたようなノリの作風だ。
あるいは、すぎむらしんいちの愛すべきDQN自衛隊マンガ『右向け左!』を、若い頃の庵野秀明が傾倒していた岡本喜八の戦争映画のようなタッチで映像化して、それに途中からゴジラが出てくるイメージとでもいえばよいか。
さしずめ、物語の舞台はどこかのさびれた地方都市、主人公は、自衛隊あるいは海上保安庁とか消防庁のレスキュー隊の落ちこぼれ隊員の青年3〜5人ほどのグループ。中高生当時からそのままつるんでいるマイルドヤンキー的集団で、20代なかばになってもいまだに高校の頃の憧れのマドンナを取り合いしてるような下世話な連中。
ところが、そんな主人公たちの住む街にゴジラ出現の報が届く。当然、不真面目な主人公たちは保身意識丸出しで隊を辞めたり逃げることを考えるが、幼なじみのヒロインの親族だかが乗った船がゴジラに沈められてシリアスな空気になるとか、地元の役所に勤めてるヒロインが逃げずに居残って地元民の救助に邁進するとか言い出したことから、不真面目な主人公たちも真面目に戦う気を起こす。
しかしそこはクドカン調で、たとえば、仲間に向かって格好よく「俺が死んだら彼女のことは頼む」とか言いながら、直後にすかさず「くそっ、俺が死んだら彼女とうまいことやる気だろ、許さんぞ!」とかいう本音(心の声)が入るような演出。
――と、そのような卑小な人間たちの下世話な営みを問答無用で吹き飛ばす巨大な災害としてゴジラが描かれるわけだ。

「全体小説」としての怪獣映画

畏友・奈落一騎氏は以前「怪獣映画は全体小説であってくれなくては困る」という意味のことを述べていた。全体小説とは、政治や社会から男女の営みやら個人の悩みまでを視野に入れ、世の中全体をそのまま描くような文学のことである。
東宝の初代『ゴジラ』以来、日本のオーソドックスな怪獣映画は、政治家に軍人、庶民、科学者にジャーナリスト、果ては怪獣を見せ物にする興行主やら宇宙人まで、あらゆる階層の人間が登場し、その右往左往が描かれる。単刀直入に言えば、都市を破壊する巨大な怪獣は、社会のあらゆる階層の人間をもれなく巻き込む「戦争」または「災害」あるいは「文明のマイナス面」のメタファーだった(『ゴジラ対ヘドラ』なんかは良い例)。
昨今、政治家や軍人の出てくるドラマや映画は多い。だが、そういう作品はとにかくシリアスに真面目に描かなければならないという強迫観念が感じられて息苦しい。
戦争や災害対策や人命救助に従事する者だって人の子だ、下世話な欲や保身意識だって当然ある。でも、それを乗りこえて危険に飛び込むからこそ感動的なのではないか? 『海猿』シリーズのヒットはその辺が背景にあったはずだ。岡本喜八監督の戦争映画(『肉弾『英霊たちの応援歌』『地と砂』など)は、そういう等身大の兵士を描いた作品が多い。
と、いったことを考えると、NHKドラマの『あまちゃん』はやはりよくできていたと思う。この作品は恐らく、東日本大震災を正面からストレートに取りあげた最初のテレビドラマのはずだが、物語の3分の2まで、えんえん東北の田舎町と東京に集う駆け出しのアイドルたちのしょーもない下世話な人間関係しか描かれない。
以前も書いたが、三陸の駅長の大吉は地元活性化のためと称してデタラメな公私混同をやるおっさんだし、ユイの兄ヒロシはひたすら情けないニートである――が、そんな連中だからこそ、後半の災害復興編で彼らが地元のため一致団結して立ち上がる姿は感動的だ。
むしろ逆に、最初から災害復興を前面に出して彼らを善良で真面目な人々に描いていたら、あの後半の盛り上がりはなかったろう。落差こそが感動を生むのである。