電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

昭和30年代特撮戦争遺跡めぐりの旅

東京MXTVでは『怪奇大作戦』のあと『ウルトラセブン』の再放送をやっているが、キリヤマ隊長役の中山昭二地球防衛軍組織の幹部役の平田昭彦、藤田進などは、昨年仕事でさんざん観た戦後日本戦争映画の常連出演者でもあった。
というか『ゴジラ』以来、東宝の特撮映画と戦争映画は、円谷英二特技監督をはじめ、スタッフもキャストも、ほぼ同じよーな顔ぶれである。
最近、オールド特撮オタクを自認しているくせに未見だった作品を幾つか続けて観たが、昨年の仕事の延長のような感覚で、あえて「オールド日本特撮映画に漂う戦争の影」を見出してみた。
『ゴジラの逆襲』(1955)
アンギラスとともに大阪をぶち壊したニ代目ゴジラは、北海道方面へ逃亡。主人公は民間企業のパイロットなわけだが、北海道に来た途端に、その戦時中の元上官と元戦友(現在は自衛隊にいるという)がぞろぞろ登場。
自衛隊ゴジラを流氷に閉じ込めようとするがうまくゆかず、主人公の僚友は飛行機で氷山に衝突して落命。しかしそれをきっかけに、爆撃で人工的に雪崩を起こしてコジラを封じ込める作戦が立案される。ところが、主人公の元上官や元戦友たちは次々とゴジラに撃墜され、やむなく体当たり自爆で雪崩を起こそうとする。
結局、主人公は生き延びるが、死んだ僚友の肩身の手帳に入っていた恋人の写真が、妙な余韻を残す。このへんラスト30分だけ、ほとんど特攻隊映画のようなノリである。
(戦争の影度★★★)
『空の大怪獣ラドン』(1956)
本作は、初代ゴジラとは打って変わってオープンな娯楽作を狙ったためか、暗い戦争の影は乏しい。しかし、劇中の警察官や自衛隊が、やけにテキパキしている印象が強い。怪我人を担架で運ぶ動き一つとっても、役者の動きにスキがない。
また、ラストで、主人公の周囲の主要人物は死なないが、ラドンの住む阿蘇山火口に自衛隊がミサイル総攻撃を加えると、ラドンは、巣にいる幼い雛ラドンの声に答え、自ら炎上する噴火口に飛び込んでゆき、怪獣が死ぬというのに、ヒロインは悲しげに目を伏せる。
皮肉な話、ここでは今や戦争の災禍を忘れた人間ではなく、怪獣の方に、かつて空襲の中で我が子を助けようとして一緒に死んだ母親のようなイメージが重ねられているようだ。
(戦争の影度★★)
『宇宙人東京に現る』(1956)
一つ目ヒトデこと善意の宇宙人パイラ人が、なぜかよりによって日本に「地球は核兵器を捨てなければ滅びますよ」と伝えに来るのはやはりムリを感じるが、作り手は真剣である。
この作品の見どころのひとつは、パイラ人から、巨大な流星が地球に迫ってると言われ、皆が疎開する場面だろう。何しろ、その時の人々の服装ときたら、なぜかわざわざ男はカーキ色の国民服で脚には巻ゲートル、女は防空ずきんにもんぺである! 疎開列車が田舎に着くと乗客はゾロゾロ窓から飛び降りてる、まるで戦後の買出し光景だ。
なるほど当時は「世界の危機」といえば、必然的につい10年前の戦争の風景が浮かぶものだったのだろう。
(戦争の影度★★★★)
『世界大戦争』(1961)
フランキー堺演じる平凡なサラリーマン運転手一家の日常の一方で、米ソ両大国の核戦争の危機が進行。すでに昭和30年代のこの作品で、主人公が、国際情勢の悪化を耳にしてもそれが株価に影響するのを見越して投資に走ってる姿は痛烈!
ラスト、東京に核ミサイルが迫る中での家族揃っての最後の晩餐で無理やりはしゃぐフランキー堺の、不器用な「日本のお父さん」ぶりは泣かせる。
海外航海中だった船員たちが「同じ死ぬなら祖国で」と、わざわざすでに廃墟となった東京へ帰ろうする姿は、実に日本的である。
(戦争の影度★★★★★)

萌えも薄幸も吹き飛ばす乾いたニヒリズム

近年、アフリカ、アジア、中東などの紛争地域でのチャイルド・ソルジャー、いわゆる子ども兵士が深刻な問題として注目を集めている。
いうまでなく、現実のそれらはただただ悲惨なだけである。んが、日本の萌え産業は、それさえ萌え商品にする勢いで、薄幸なちっさい美少女兵士を描いた『GUNSLINGER GIRL』だの『鋼鉄の少女たち』だのといった作品が、そこそこ人気を博していたりする。
こういうものに萌える心性というのは、なんというか、島崎藤村田山花袋自然主義私小説が題材にする「罪の告白」が欺瞞的くさいのと同じように気持ち悪い。
GUNSLINGER GIRL』では、保護者役には絶対逆らわないよう精神刷り込みされた少女兵士を手先に使っている、父親役の男(ま、読者が自己投影する位置の登場人物ね)が、ああ自分は何と罪深いことをしているのか云々、と苦悩して見せたりするわけだが、この男キャラも、それに共感する読者も、ひたすら白々しいだけである。
要するに、自分で「薄幸な少女」を作っておいて、それが自分に本質的否定をつきつけることはないという保身を前提とした上で、半端なヒューマニズムで少女に同情して感傷に浸ってるんだから、キモチワルイ自己愛にしか見えないのである。
自ら少女に手を出すやら懸想やらしておいて、その「罪の告白」を文学のネタにする自然主義私小説マッチポンプぶりと同様ではないか。
しかも、この手の「薄幸子ども兵士萌え」は、下手すっと「自分はタダのロリコンではなく、世界の残酷な現実をテーマにしている」などと、何か自分はご大層な存在であるかのようにスノッブな錯覚をしてたりするからタチが悪い。
――と来たところで、一見してこのテのタイプの作品かと思われながら、意外に好印象を持ったのが、三部けいカミヤドリ』(角川書店)だった。
物語の舞台は、カミヤドリなる奇病が蔓延した世界。その感染者は、理性を失い、怪物と化して他の人間を襲う。根本治療法はなく、カミヤドリ感染者は殺すしかない、という、救いのない残酷な設定である。
主人公ジラルドはカミヤドリ感染者を狩り出して処刑する特殊公務員で、ヴィヴィという少女を相方としている。タフガイ男と無表情な少女のコンビ、まあ、お決まりパターンだ。
二人は、カミヤドリ感染者であれば、子供であろうと元同僚であろうと殺す。ジラルドはたまーに内省するが、ヴィヴィは一切内面が描写されない、といっても、人間性の壊れた殺人鬼でもない、通りすがりの行き倒れを助けたりもする。しかし、自然の摂理に忠実に、命運の尽きた者には黙って引導を渡すのである。
いわば「運が悪けりゃ死ぬだけさ」「生きてるのはたまたまラッキイ」という雰囲気が漂っているが、別に、極端にシニカルなハードボイルドを気取っている作風でもなく、世界の残酷さをゴロンとそのまま描こうとしているようだ。この感覚は、岡本喜八山田風太郎水木しげるやなどが持つ明るいニヒリズムに似ている。
ヴィヴィは親もなく、言葉もまともに話せない。真面目に考えれば可哀想な子のはずだが、まったく薄幸そうには描かれず、ひたすらタフで下品な野生児だ。彼女はある意味、自然神の化身のような聖少女とも言えそうなのだが、宮崎駿ヒロインのような、ロリコン受けしそうな美化が一切無く、ただただ不潔な白痴娘扱いである。何より、ジラルドとヴィヴィの間には最後まで恋愛感情みたいなものは一切描かれない。
お陰でこの作品、下手な感傷のつけいるスキがないが、それゆえ人気がなさそうだ。しかし、弱者への憐憫にかこつけた自己憐憫に陥るような人為的ヒューマニズムを超えて、世界は本来汚くて残酷だが、それゆえ美しい、ということを描こうとしているように見える。
筆者の三部こと瓦敬助(元・荒木飛呂彦のアシスタントだという)は、よくネパールに行ってるそうだが、現実の途上国の、不潔な環境と、我々先進国の基準では薄幸でも案外のほほんとタフに生きる人間の姿を見ていればこそ、こんな感覚が身につくのかもしれない。