電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

弱者が戦わないでどうする?

サークル惑星開発委員会の同人誌『PLANETS Vol.4』に「ニート論壇はなぜうまくいかないのか」という一文を寄稿。
先頃、日本の経済財政大臣は、日本はもはや経済大国ではない、という意味の事を語ったそうである。
しかし、不謹慎な言い方をすれば、国が貧乏になるというのは、右や左の思想屋にはチャンスのはずなのだ。実際、不景気のどん底にあったヴァイマル共和国時代のドイツでは、ナチスも共産党も大躍進した。
が、今の日本では、右っぽいスローガンを掲げる人も、左っぽいスローガンを掲げる人も、うまくいってるように見えない、それはなぜなのか? を考えてみた次第。ただ言い放しも無責任なんで「じゃ、どーすりゃいいんだよ?」というのも一応考えた。
いつも書いてることだが、どう考えてもこの同誌中、明らかに浮いてるとしか思えないのだが、まあ、お声がかかるうちが花なのか?
ところで、件の原稿では「ニート論壇」云々などと書きながら、2007年度、その業界では最大のスターに育った(?)自称「丸山真男を殴りたい戦争待望フリーター」の赤木智弘のことはあえて意識的に無視した。
何を今さらだが、昨年秋頃の『SAPIO』ほかでの発言によると、赤木君は「主夫になりたい」のだそうな。
なんだよ? お前も本音は、高収入女性に養って欲しい「可愛い僕」君かよw
いや、赤木君は別に直接そう言っとるわけではない。だが、わたしにはそうしか読めんぞ♪
まあしかし、これは今の無気力な下流層男の潜在的な本音なのかも知れない、だから高収入女性からの逆援助交際申し込みを装ったスパム迷惑メールもなくならないんだろうなあ、と(←そんなおいしい話が現実にあるかっての!!)
経済財政大臣が自ら認めるように、日本の経済は明らかにかつてより活力を失っているのだから、もはや黙って座ってりゃ回転寿司のように欲しいものがそっちから廻ってくるなどありえないのに、そこで飢えたる階層の間でこそ「男子たるもの金でも女でも戦って勝ち取るもの」という考え方が見事に死んでいるのは不安でならない。
――とか偉そうに書いてる骸吉君自身は戦ってるんですか? と問われると、
さあ、とりあえず自分が必要とされる分のことをやってるだけです。
と答えるしかない。ただし、わたしは自分が下流なのは分相応と考え、文句は言わないようにしてます。少なくとも当面は。
わたしは別に、男子たるもの全員が全員、金でも女でも戦って勝ち取らなければならない、とは思っていない。そりゃ「戦わない自由」、勇気ある撤退を選ぶ「戦いから降りる自由」だってある。
ただ、潔く欲しがらないか、欲しがるなら戦うか、どっちかハッキリすべきだろう。戦う気はないのに欲しがるからみっともないのである。
「戦う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう」中島みゆき『ファイト』

「他人同士でない国」の無自覚な保護の得

だが、してみると、日本の下流化、貧困など、まだ甘いのかも知れない(まあ、ただ危機感が足りないだけなのかも知れないが)。
論座』1月号で、町山智浩は「日米よ、徴兵制度を復活させよ」と書いた。
アサヒ系の雑誌でこの発言は注目すべきだが、要するに、アメリカでは、いまや軍を支えているのはほかに就職先のない下流層で、その犠牲の上に、苦労知らずの連中が威勢の良いタカ派発言を吹いている、金持ちも貧乏人も平等に戦争の味を経験する方法は徴兵制だろ、という話である。
ウェイン町山のこの発言と、偽悪的に「戦争待望」を主張した赤木智弘は似ていると思う人がいるかも知れないが、両者は根本から違う。
赤木君は「戦争になったら偉そうぶってる連中も軍隊で殴られるだろうからザマミロだ」という空想をただ言ってみただけではないかと思う。
しかし町山は、人間は、自分の大事な身内を守る目的で、必要とあれば、自らが銃を持って戦わなければおかしいはずだぞ、と述べているのだ。
町山は、その昔『別冊宝島 裸の自衛隊』(1991年刊行)の編集に関わった時は、本来文弱のオタクだけどカッコいい戦争映画とかは好きだから、取材のため自衛隊の訓練に参加して痛い目にあった、というようなことも自ら吐露している。
また現在の町山は米国在住だが、そもそも彼は、日本にいたときも、渡米後も身分は異邦人だった。平穏な日本で30歳過ぎて親元住まいのフリーターとは(望んでも自立さえできない、という初期条件の差も確かにあるだろうが)、身を置いてる環境からして覚悟が違うというべきだろう。
先日も書いたが、自分も米国に渡った友人がいて、彼によると、ニューヨークでは、周囲が赤の他人同士の国ゆえ、ある一方では非常によそ者には厳しい土地だが、逆に一方ではボランティア的な相互扶助が発達していると聞いている。
彼は商社員などの長期在留日系人コミュニティとのコネがないばかりに、アパートを借りることから仕事探しから日々の買い物先をどこにするかまで、右も左もわからぬ異人相手に相当苦労したようだが、中にはボランティア的に異邦人にも好意的に接してくれる人もいる(その人種民族もまた雑多)から助かってる、という話をよく述べる。
裏返せば、普通に生きてるつもりの日本人は、普通に日本語が通じて向こうからはいはいと要望を聞いてくれる不動産屋だの、窓口がわからなければすぐ教えてくれる役所だの、いかに「日本人だから」というただそんだけで日本国の恩恵を受けてたかがわかる。
だが、これは、同じ日本人同士だからお互い話が通じると思えている、というだけで、本当に身内でもなんでもない見ず知らずのよそ者を善意で助けてくれるという文化ではあるまい。
その渡米した友人と共通の友人である畏友ばくはつ五郎氏とも、その辺の話になったことがある。
隣にいる人間が困ってれば助ける、なぜなら、お互い様だから(ここが重要、「情けは人のためならず」の本来の意味だ)、という考えが今の日本で広まらないということは、共同体への危機意識もまだまだ、ということなのだろうか。
これ、放っとけばヤバいぞ。
だって、黙ってりゃ助けてもらえる、などということはありえないのだから。
「権利は、あたかも真理のようにあらかじめ存在するものではなく、闘い取るものである。そして、闘うことを止めれば権利は自動的に消失する。」宮崎学『突破者』