電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

偉人伝ではなく異人伝の哲学史

大和書房『萌える☆哲学入門』(isbn:4479391940)刊行。
今回、当方は「第4章 現代の哲学」の章を担当。
具体的には、科学哲学(ポパー)、現象学フッサールメルロ=ポンティ)、実存哲学(ハイデガー)、記号論ソシュール)、構造主義レヴィ=ストロース)、ポスト構造主義フーコーラカンドゥルーズ)…などなど。
本書では各哲学者の論点もさることながら「キャラ立ち」を重視。実際「偉人」というより「異人」(ときにはむしろ奇人)と呼ぶべき哲学者は多い。
一度哲学者をやめて小学校教師になったのに教育熱心すぎて生徒を殴って首になったヴィトゲンシュタイン、内縁の妻ボーヴォワールの合意の上で堂々と不倫しまくったサルトル、アフリカ生まれでサッカー選手志望だったデリダ……とか書くと、難しげな哲学者も親しみやすく感じないかなぁ、と思います(古代、中世、近代までの哲学者の章も同様)。
とはいえ、萌えと言いつつ哲学者というのはゴツいおっさんばかり……そこで、ハンナ・アレントとかシモーヌ・ヴェイユみたいな女性の哲学者も取りあげては? とか言ってたら自分がその項目も書くことになった。実際ヴェイユとか、貧しい労働者と同じ生活して体を壊したり、内戦期のスペインで人民戦線の義勇兵になったのに、ど近眼のせいで戦闘ではなく炊事で負傷して帰国を余儀なくされるとか、その健気なドジッ娘ぶりは萌える。
とりあえず、今回はとくに監修の小須田健先生のお手を煩わせましたが(小須田氏は哲学上の論題をわかりやすいたとえ話にするのが上手い人です)、そんだけ良い本になったと思ってます。

異邦人の視点を持った哲学者たち

そんなわけで今回の仕事では、現代思想の巨人と呼ばれた人たちのプロフィールをいろいろ調べたが、改めて思った、20世紀の著名な哲学者・思想家はユダヤ系が多い。さらに、何らかの形でナチスの被害をこうむった人がまた多い。フッサールしかりベルクソンしかりアレントしかりレヴィ=ストロースしかりヴェイユしかりレヴィナスしかり……。
そもそも、ユダヤ人は土地を持たないので医者や法律家などの専門教育を要する職に進んだ者が多かったといわれる。だが、ヨーロッパの人文系大学は近世までキリスト教会の強い影響下にあった(中世までの哲学は神学と不可分だった)。近代以降にキリスト教と大学の分化が進んだら、その結果ユダヤ系の学者が目立つようになった、ということか?
今回わたしは「第4章 現代の哲学」の章の概説部分で、監修の小須田先生の参考書を踏まえたうえで、現代哲学の特徴は以下のようなものだと書いた。

  1. 哲学における「科学性」の見直し(これは精神分析マルクス主義など「科学的」と称する哲学が普及したため)。
  2. 人や物を個別にでなく他のものとの関係性において見る視点(これもフロイト精神分析マルクス資本論以来のものだが)
  3. 西欧近代中心主義批判(近代が植民地帝国主義ファシズムスターリニズムを生み出したことへの批判を含む)

こうした現代哲学の視点は、多く場合、過去の哲学のものの見方、考え方を根底から相対化していたりする。で、「現代の哲学は、ミもフタもなくいえば『この世に絶対的な正義や真理はない』と唱えている」とまとめた。無論、絶対的な正義や真理はないからって、何も考えずにいい加減に生きてて良いわけじゃなく、考えるべき問題は常にあるんだが。
さて、以上のような、過去の哲学のものの見方、考え方を根底から相対化する視点というのは、ちょっと強引に言えば「異邦人の視点」といえる。なるほど、それで伝統的なキリスト教・ヨーロッパ文化にとっての異邦人たるユダヤ人の論客が目立つのかも知れない。

日本の表現の自由論議はヌルいのか?

と、泰西の話を書いても、まあ日本人にはぴんと来づらい。
ところで、前回、陵辱ゲーム(レイプ物エロゲー)規制論について書いた。
この件についての佐藤亜紀女史の主張はおおむね「世の中、表現が規制されることはある。そのうえで、本気でやりたい恨性のあるヤツは地下に潜って勝手にバンバンやれ」というものだと読めるが、「表現の自由」を掲げる規制反対論者から猛反発されたようだ。
しかしふと思った。ヨーロッパでは、いまも国によっては旧ナチス賛美は表現の自由を認められず、はたまた、旧共産圏やらイスラム文化圏やらで当局から発禁処分を食らったが懲りずに亡命してバリバリ書いてる作家も多い。佐藤亜紀は滞欧経験が豊富で、書いてるものを読む限り、どうも頭の中がすっかり脱日本人化している人のように見受けられるので、そういうのを基準にしてものを言ってるつもりなのではないか? と。
発禁本だの地下出版だのというと、平和な現代日本の文化に慣れきった人間は、みな後ろ暗い犯罪者をイメージする。しかし、泰西に目を向けるまでなく、中国でも朝鮮半島でも反体制派知識人は「当局には許されない抵抗の文学活動」を行なっている者も少なくない。
本気で恨性があるなら「自分らはレジスタンスなんだ!」という誇りを持って自分の好きな文化を貫け、佐藤亜紀エロゲー好きをそう叱咤したつもりなのかも知れない(←というのは俺の勝手な解釈)。が、こういう意見は、表現の自由は保障されてて当たり前、漫画やポルノすら大人の公認お墨付きがなけりゃ安心できない、という平和な現代日本人には受け入れ難かった、ということなのか?

現代日本人成人男性」に対する異邦人の視点

断っておくが、わたしはべつに佐藤亜紀を誉めたいわけでもない。
確かに彼女は日本人としては希有な視点の持ち主で、骨のある人物でもあると思っている。しかし、以前も述べたが、彼女のような人の前では逆に土着大衆の本音を弁護したくなる。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20071105#p2
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20071105#p3
佐藤亜紀の小説は『バルタザールの遍歴』でも『戦争の法』でも『1809』でも、歴史への優れた視点をうかがわせる知的な作品ではあるが、思想や祖国のため奮起する男は大抵バカのように描かれる(確かにそういう男はバカだが、山田風太郎なら、そういうバカさに生きざるを得ない切実さも説得力をもって描く)。その一方で、筆者の自分だけは何にも属さない立場にあるかのように気取った感じが、一個人的には鼻について好きになれない。
ただ、第三者としての無責任な立場で言うと、今回の陵辱ゲーム論議で、佐藤亜紀と彼女に猛反発した人との見解のズレという現象が見せてくれた構図は少し面白いな、と感じた。
わたしには、今の日本で発言しているリベラル派・ロスジェネ論壇、非モテ論壇の人たちも、ネット右翼嫌韓厨も、ほとんど、あくまで「『現代日本人成人男性』の立場からの自分の権利擁護」しか言ってないという意味では、みな同じ穴のムジナにしか見えない。
すると「自分の立場を擁護するのが思想であり政治的主張だろ?」と当たり前のように返されるかも知れぬ。
しかし、かつての「左翼」(「サヨク」ではない)は、世界の飢えたプロレタリアの解放のためには、ときには現前の自分の権利も犠牲にする意気込みだった。かつての「右翼」(「ウヨ」ではない)は、古来の日本の清く貧しく美しい精神を護持するためには、ときには現前の自分の権利も犠牲にする意気込みだった。
単なる自分の権利擁護ではなく「思想としての普遍的・客観的な正当性」が得たければ、今の自分らと違う立場の人間も視野に入れてものを考えるべきだろう。たとえば、女性から見たらどうよ、とか、もっとビンボーな外国の人間から見たらどうよ、とか、もっと我慢と礼節と清貧が美徳だった過去の日本人の感覚だったらどうよ、とか……。
「洋行帰り」で「女」の佐藤亜紀は(それに共感できるかはさておき)「現代日本人成人男性」に対するアウトサイダーの見解を述べたとも見える。ただし、そんな彼女にはまた、そういう立場での自分の守りたい権利というものがあるのだろうけど。
みな「自分の立場からの意見」しか言えない。当然、こう書いてるわたしも。