電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日本の表現の自由論議はヌルいのか?

と、泰西の話を書いても、まあ日本人にはぴんと来づらい。
ところで、前回、陵辱ゲーム(レイプ物エロゲー)規制論について書いた。
この件についての佐藤亜紀女史の主張はおおむね「世の中、表現が規制されることはある。そのうえで、本気でやりたい恨性のあるヤツは地下に潜って勝手にバンバンやれ」というものだと読めるが、「表現の自由」を掲げる規制反対論者から猛反発されたようだ。
しかしふと思った。ヨーロッパでは、いまも国によっては旧ナチス賛美は表現の自由を認められず、はたまた、旧共産圏やらイスラム文化圏やらで当局から発禁処分を食らったが懲りずに亡命してバリバリ書いてる作家も多い。佐藤亜紀は滞欧経験が豊富で、書いてるものを読む限り、どうも頭の中がすっかり脱日本人化している人のように見受けられるので、そういうのを基準にしてものを言ってるつもりなのではないか? と。
発禁本だの地下出版だのというと、平和な現代日本の文化に慣れきった人間は、みな後ろ暗い犯罪者をイメージする。しかし、泰西に目を向けるまでなく、中国でも朝鮮半島でも反体制派知識人は「当局には許されない抵抗の文学活動」を行なっている者も少なくない。
本気で恨性があるなら「自分らはレジスタンスなんだ!」という誇りを持って自分の好きな文化を貫け、佐藤亜紀エロゲー好きをそう叱咤したつもりなのかも知れない(←というのは俺の勝手な解釈)。が、こういう意見は、表現の自由は保障されてて当たり前、漫画やポルノすら大人の公認お墨付きがなけりゃ安心できない、という平和な現代日本人には受け入れ難かった、ということなのか?

現代日本人成人男性」に対する異邦人の視点

断っておくが、わたしはべつに佐藤亜紀を誉めたいわけでもない。
確かに彼女は日本人としては希有な視点の持ち主で、骨のある人物でもあると思っている。しかし、以前も述べたが、彼女のような人の前では逆に土着大衆の本音を弁護したくなる。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20071105#p2
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20071105#p3
佐藤亜紀の小説は『バルタザールの遍歴』でも『戦争の法』でも『1809』でも、歴史への優れた視点をうかがわせる知的な作品ではあるが、思想や祖国のため奮起する男は大抵バカのように描かれる(確かにそういう男はバカだが、山田風太郎なら、そういうバカさに生きざるを得ない切実さも説得力をもって描く)。その一方で、筆者の自分だけは何にも属さない立場にあるかのように気取った感じが、一個人的には鼻について好きになれない。
ただ、第三者としての無責任な立場で言うと、今回の陵辱ゲーム論議で、佐藤亜紀と彼女に猛反発した人との見解のズレという現象が見せてくれた構図は少し面白いな、と感じた。
わたしには、今の日本で発言しているリベラル派・ロスジェネ論壇、非モテ論壇の人たちも、ネット右翼嫌韓厨も、ほとんど、あくまで「『現代日本人成人男性』の立場からの自分の権利擁護」しか言ってないという意味では、みな同じ穴のムジナにしか見えない。
すると「自分の立場を擁護するのが思想であり政治的主張だろ?」と当たり前のように返されるかも知れぬ。
しかし、かつての「左翼」(「サヨク」ではない)は、世界の飢えたプロレタリアの解放のためには、ときには現前の自分の権利も犠牲にする意気込みだった。かつての「右翼」(「ウヨ」ではない)は、古来の日本の清く貧しく美しい精神を護持するためには、ときには現前の自分の権利も犠牲にする意気込みだった。
単なる自分の権利擁護ではなく「思想としての普遍的・客観的な正当性」が得たければ、今の自分らと違う立場の人間も視野に入れてものを考えるべきだろう。たとえば、女性から見たらどうよ、とか、もっとビンボーな外国の人間から見たらどうよ、とか、もっと我慢と礼節と清貧が美徳だった過去の日本人の感覚だったらどうよ、とか……。
「洋行帰り」で「女」の佐藤亜紀は(それに共感できるかはさておき)「現代日本人成人男性」に対するアウトサイダーの見解を述べたとも見える。ただし、そんな彼女にはまた、そういう立場での自分の守りたい権利というものがあるのだろうけど。
みな「自分の立場からの意見」しか言えない。当然、こう書いてるわたしも。