電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

無視される「普通の多数派」

少し前、某所で「なぜ、片山さつきのような東大法学部卒・元大蔵省官僚の超エリートが、2ちゃんねるまとめのハムスター速報なんぞにハマってネットで下流層の過激意見に同調するのか?」について私見を述べたら、やたら「目から鱗だ!」と驚かれた。
つまり、彼女ぐらいのエリートになると、逆説的に「自分はエリートの世界しか知らない世間知らずじゃないぞ、実は意外に下々の庶民のホンネを直に知ってるんだ、どうだ凄いだろ」とドヤ顔をしたがる場合がある。
これは従来、「大衆の原像」論を説いた吉本隆明から、女子高生やクラブキッズに取材した宮台真司まで左翼がよく陥ってた病気だった。言ってみれば、保守と左翼は民衆という子供の取り合いする夫婦みたいなものである。
だが、社会の多数を占めるまともな中流一般人は、躍起に自分の主張を述べるようなことはない。というか、むしろそれが健全で普通である。
(2011-08-31「文字化されない民心」)
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20110831
その結果、エリート様がTwitterやら2ちゃんねるやらFacebookを使ってネットで手っとり早く政治的意見リサーチを試みれば「まっとうな多数の中間層(サイレント・マジョリティ)」をすっ飛ばして、「24時間365日自説を力説する極端な少数派(ノイジー・マイノリティ)」ばかりと結びついているのではないか。
現代日本人の平均では「竹島尖閣も日本の領土だ! でもこっちから戦争するほどの気はない」ぐらいがまあ多数派だろう。そして、別に24時間365日それについてばかり声高に主張もせず、一日の大部分は、目先の仕事、友人や家族との人間関係、今日の晩ごはん、昨日の野球の試合、気になるドラマの次回……なんてことを考えてるのが普通だろう。
本来、伝統とか保守は「中庸」であり、極端な復古主義もまた、伝統保守とは相性が悪い。『謎の独立国家ソマリランド』(isbn:4860112385)を読んだら、地方の氏族の長老が、アル・カイーダ系の過激派を「あんなのはイスラムではない」と毛嫌いしているという話があった。事態はどこの国も似たような物らしい。