電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

みんな「学校」になってしまった。

例によって中年オヤジのド素人丸出しなバカな見解(さあ笑え!)
昨今、現実には少子化であらゆる学校の縮小が進んでいるのに、アニメやライトノベルでは「巨大な学校」という設定をやたらよく見かける(それも魔法やら超能力やらSF的ファンタジー的ガジェットが関係する特殊な学校)。『青の祓魔師』の魔法学校とか『緋弾のアリア』の軍人&スパイ養成学校とか、『禁書目録』&『超電磁砲』の学園都市とか。
そしてさらにこれも「何を今さら」すぎる話だが、日本のアニメやライトノベルなどの主人公は、大抵10代の中学高校生である。主人公が大人で実業家である『バットマン』や『アイアンマン』のような広範な年齢層向け作品は成立しにくい。
これって何なんだろう? 漠然とだが、なーんとなく気になってた。
しばし前、上記の『あまちゃんモリーズ』の編集作業の合間に、たまたま中森明夫氏と同席する機会があり、なんとなくこの話をしたらシンプルに返答された。
曰く、それは「みんな現実の学校には何もなかったから」だと。
つまり、作品の作り手も視聴者観客も、学校で何か起きて欲しかったという願望があったからではないか。
(そういや自分のリアル高校生当時のオタク友達には「中学の時は高校に入れば『うる星やつら ビューティフルドリーマー』みたいな日常があると思ってたが、そんなことはなかった」と語った者がいた。『ビューティフルドリーマー』の傍流のような『エンドレスエイト』を書いた谷川流も、『叛逆の物語』を書いた虚淵玄も、かつて同じような感慨を持ったことがあったのか?)
現実には、学校の外でなら非日常的な事件はいくらでも起こりえる。中東のシリアじゃ10代の少年少女が戦争に参加し、西アフリカのガンビアでは21世紀のご時世に魔女狩りが行なわれている(要は政府による民間信仰の弾圧)、日本国内でも、広島県では10代の少年少女が集まって生活してるうちに連合赤軍みたいなリンチ殺人が起きた。
しかし、学校の外の非日常100%ではいまいち実感から遠く面白くない、自分の体験的に実感ある日常の延長上の非日常が見たい――ということなのだろうか。
あまちゃん』は高校生活の描写は最小限で「職業物」として広範な客層をつかむヒット作になった。ただし、到底「プロちゃん」とはいえない「アマチュア」だった。考えてみれば、劇中の海女クラブやGMT合宿所も一種の学校のような雰囲気と言えるか。