電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

忘れられた小さな英雄

NHKドラマの『ひよっこ』を見ていたら、前々からの漠然とした疑念が頭をよぎって仕方なくなってきた。
以前も述べたが、わたしは現在の少子化の原因が、「悪い左翼フェミニズムが女性の社会進出を唱えたり、日本国憲法が家族の絆より個人主義を広めたせいだ」というのは大ウソだと考えている。

2016-04-04 少子化の真の原因と解決策
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20160404

さて、『ひよっこ』の劇中、主人公のみね子らの年端もいかぬ乙女たちは、地方から東京の工場に集団就職してきた。当時、東京のみならず日本各地でああいう女子工員が集められていたはずだ。
わたしが7歳まで住んでいた長野県の諏訪では、時計やカメラやらの精密機械工場で働く女性たちがいた。戦前や大正時代にまで遡ると、製糸工場の女子工員たちになる。わたしが中高生時代に住んでいた福岡の粕屋から内陸の筑豊でも、おばちゃんの炭鉱労働者が大量に石炭運びの仕事をしていた。
この手の女子労働者というのは、『ひよっこ』の劇中でも描写されているが、単純に家が貧しく金が必要なので地元を離れて働いてる。「悪い左翼フェミニズム」とか「戦後の個人主義」とか1ミリも関係ない。
ひよっこ』の劇中では、1960年代当時、みね子らのような女子工員たちが作っていたトランジスタラジオが日本の重要な輸出商品であると描写されている。いわば彼女らもまた、高度経済成長期を支えた偉大な小さな英雄だ。いやそれを言えば、戦前の日本の輸出産業といえば生糸と絹製品で、これも先に触れた長野県をはじめ各地の女子工員に支えられていた。
果たして彼女らは「悪い左翼フェミニズムに洗脳されたけしからん人たち」なのか? こうした女性の社会進出は、むしろ国家の要請だったのではないか?

勤労動員の女子工員たちは愛国者?非国民?

みね子たちの寮で舎監を務める愛子さんは、戦時中から工場に勤務していたという。彼女の若いころの姿を見たければ、黒澤明『一番美しく』が参考になるかも知れない。
戦時中につくられたこの映画では、女子工員たちが「お国のために!」と一致団結して、男性の労働者に劣らぬ働きぶりを示す姿が感動的に描かれる。
しかしだ、戦前の標準的な庶民の娘といえば17、8歳ぐらいで結婚するか、あるいは父母の側にいて家の手伝いをする(当時のほとんどの世帯は農家や個人商店などの「家業」である)のが普通だったのではないか。
少し前に『AERA』2017年5月1-8日合併号が「右傾化する女たち」という特集記事をやっていた。この記事などによると、女性だけど右派の方々というのは、「女性の社会進出はけしからん。専業主婦こそ女のあるべき姿」というお立場らしい。使用者がどの程度いるか不明だが、最近は「フェミウヨ」という語句があるようだ。
専業主婦礼讃の右派フェミニストの立場からすると、映画『一番美しく』の劇中の女子工員のように、「お国のために」結婚せず工場で一生懸命働く女性たちは、けしからん人々なのか? それとも立派な愛国者なのか? どっちなのだ??? わたしはそれが気になって気になった仕方ない。
昨今では、片山さつき稲田朋美、櫻井よし子、長谷川三千子杉田水脈、はすみとしこ等々、女性の右派論客は数多い。恐らく、右派フェミニストの中でも意見は分かれるのだろう……ただまあ、こうした女性の右派論客御自身の多くは専業主婦になる気はなく、既婚であっても子供はいなかったりするのであるけれど。

「戦争というワクワクの時間」の終わりの後

『一番美しく』の劇中、「私たちのような無力な小娘だってお国の役に立てるんだ!」と頑張って輝いていた娘たちは、その後どうなったのだろう? 意地悪な中年初老オヤヂのわたしはイヤな想像をしてしまう。
恐らく彼女らは「戦争という非日常」による高揚の日々が終わるや、実家に帰って父母に怒鳴られながら農家やら商家の家の仕事をするだけという狭い世界に戻されるか、17、8歳そこいらでさっさと嫁に行かされるか、どちらかだろう。
無論、それに順応してゆく娘も多いだろうし、むしろそっちの方が多数派だったはずだ。しかし、なかには戦時中の高揚感が忘れられず、「ああ、なんで戦争が終わっちゃったの? ずっと戦争が続けば良かったのに」と考える女子がいたとしてもおかしくない――左翼の平和主義者は真っ赤になって怒りそうだけど、そういう乙女もきっといたと思う。
さらに、戦時中の勤労動員の一致団結の高揚感が忘れられなかった女子供のなかには、日本共産党に入党して組合運動の闘士になった人間もいたのではないか? さしずめ、冷戦体制崩壊後に旧東ドイツ出身者からネオナチが次々生まれたのの逆パターンだ。
実際、『はだしのゲン』に出てくる町内会長のおじさんのように、昨日まで「鬼畜米英撃ちてし止まん」と言っていた大人たちが一転して占領軍に尻尾を振るようになった状況下、赤旗を振ってる連中から「労働者の祖国」ソ連では男女平等だとか吹き込まれれば(代わりに男女平等に重労働でシベリア送りになるが、その詳細は知らされてない)、人間の心理として、そっちに流れるのもまあ無理なかったんじゃないかなあ、という気がする。

小津安二郎という偽善者

ここで少々いきなり話が飛躍するが、これも前々から強く気にかかっていたことなのでついでに述べると、わたしは小津安二郎の『東京物語』という映画がどうにも嫌いだ。なんでこんな作品が美しい日本人の姿なんて言われるのか、まったく理解できない。
ひよっこ』にも『一番美しく』にも、生きている、働いている、生身の女性が描かれる。だが、『東京物語』で原節子の演じるヒロインは、職業婦人という設定のはずなのに、ひたすら中高年男性の都合良い願望のお人形にしか見えなくて気持ち悪い。
劇中で笠智衆が演じる老父の実の子らは東京に出てきた老父にろくに構おうとしない一方、親身になって相手をしてやる原節子がさも理想的な嫁みたいに描かれる。
しかし、実の子らは現代によくいる独身中年ではない、ちゃんと自分らの仕事と家族(子供)を持っている身だ、老父のことが嫌いなわけでもなく、単に仕事が忙しくて相手ができないように描かれている。現代の基準なら充分にまともな大人ではないか。
一方、原節子の演じる「死んだ息子の嫁」は、亭主も子供もいない身軽な立場ゆえ老いた義父の相手ができている。しかも職場は簡単に休みが取れるらしい。そして、「死んだ亭主の父」に実の父以上の扱いではないかと思えるぐらい親身に接している。何だよそれ?
あまりにも男にとって都合が良すぎる、無意識の男尊女卑の臭いがプンプンする。ロコツに女性に対して抑圧的な男を描くよりよほど気持ち悪い。
――などと前々から思っていたら、昨年、かなり腑に落ちる『東京物語』評を見た。

菅野完? @noiehoie
現に、小津の映画には「食事のシーン」があれほど大量に出てくるのに、「料理のシーン」はあまり出てこない。 例えば『東京物語』。笠智衆東山千栄子夫婦が宿無しになり、嫁である原節子の家に逗留するあのクダリ。原節子は義父母を心から歓待し、酒食を提供するが、一切料理しない。
https://twitter.com/noiehoie/status/792517383554424837

菅野完? @noiehoie
あの時、原節子は、隣の部屋から酒とお猪口を借り、料理は店屋物だ。
無論それは、「戦争未亡人であり職業婦人である原節子は、客をもてなす所帯道具がない生活をしている」ことや「戦争未亡人で子供に恵まれなかった」ことなどを描写するための方法ではある。しかし、原節子、一切手を動かさないのだ
https://twitter.com/noiehoie/status/792517928356720643

菅野完? @noiehoie
つまり、小津の描いた日常とは「誰一人料理しないのに、綺麗な器に乗った料理が出てくる」日常であり、こうの史代の日常とは「灰神楽の舞う中火吹き竹で竃に息を吹きかけ汗拭き拭き作った銀シャリをがっつく」日常。この対極。
https://twitter.com/noiehoie/status/792523983782449152

まっ、小津が生きていた当時は逆に、そういう「生活感のなさ」が斬新で清潔だったのかも知れないけどね……。わたし個人は、ばりばりと汗水流して働いてうまそうにカレーを食べる『ひよっこ』劇中の乙女らの方が好きです。