電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

補足 或いは「大地から切り離された民」について

10/20付で「ある寓話」などと書いたが、こうやって具体性を消去して考えると、何やら一見、ウィットの効いたブラックユーモア小話を気取ってるのかと思われそうだが、具体的な現実に即して考えると、実は非常に単純にしょーもなく生臭い話だったりする。

先日また、いつものように幾つかの書店をふらふらと散策し、最後に「コミック虎の穴」に行って、たまたま何気なく一冊のエロ同人誌を手に取って見たら、本筋と関係なく、アニメ絵美少女キャラがニコニコしながら「金王朝は人権抑圧国家で云々」とか「韓国は50年も前のことをうるさい」とか、えんえん朝鮮・韓国批判の会話を行ってる、という描写に出くわした。それ以外は全然まったくただの普通のエロ同人誌なんだが。

気分が萎えるとかいうレベルではなく、うげっ、なんだか物凄く恥ずかしい嫌ぁなものを見ちまったヤダヤダ、という言い知れぬ気持ちの悪さに陥った。いや、そこで展開される主張が「アメリカは人権抑圧国家で云々」とか「日本はアジア諸国にきちんと謝罪すべきだ」とかいう内容でも、ある程度は同じように感じたろう(週刊モーニングで始まった、その名も『アメリカなんか大きらい』という題名のマンガには流石にちょっと閉口したし)

まあ、上記の同人誌を書いた人物は、若くて、ネットで流行の「チョン批判」にお熱な人で、でもって頭の中は、一方にエロゲーキャラ、一方に国際情勢という極端な組み合せで、エロ同人誌をやりつつ本気でご高尚な憂国の士気取りなのかも知れない……というか、そんなの今ドキ珍しくないかも知れないし、いちいち大真面目に相手にするまでもなかろう。

では、わたしが感じたこの言い知れぬ気持ちの悪さ、ってのは何なのか? と、書店を出てほっつき歩きながら考える(と、こういうくだらんことを真剣に考えないと気がすまない性格なんです、すみません)

まず、仮に彼の抱いている主張の内容が、反米、反自民とかサヨッキーな方向のものだったとしても、同じように気持ち悪く感じたであろう点として「なんだコイツどうせ若いシロウトのくせに借り物の大文字の正義で調子こきやがって」という感覚がある。
つまり「エロ漫画屋なら潔くエロ漫画に徹底しろ、むしろそれこそがプロ意識だろう。自分がご高尚な社会正義やらの思想を語ってるなんて思い上がるな」ということ。
これは、時としてエロゲーやエロ漫画の愛好者が、児童ポルノ規制法案について、単純に正直に、自分の好きな物を規制されるのは嫌だ(それに異論はない)と言わず、一足飛びに「表現の自由」とか「児童ポルノ規制法案は、オーウェル1984』みたいな情報統制独裁管理社会への第一歩だ」とか大真面目に言うことへの違和感についても同様。

で、率直な話、そりゃ流石にわたしも北朝鮮はひどい人権抑圧独裁国家だと思うし、韓国の、日本統治時代なんか知らない筈の戦後生まれ世代にまで及ぶ反日感情の根の深さには閉口する部分もある。しかしそれでも、なんか昨今の、ネットで目に付く、しれっと何気なく(と見せかけてしつこい)チョン差別、という風潮には違和感を禁じえない。
じゃあ、俺はなんで、まったく躊躇なく差別発言を行うことを目にすると「言い知れぬ気持ちの悪さ」を感じるのか?

まずタテマエとして、学校とかで習った、人間はみな平等であるべきである、差別は悪である、という左翼の人権ヒューマニズムの価値観がある。何だかんだ言って、わたしも世代的にその刷り込みが残っていて、件の、しれっとチョン批判のエロ同人誌作家は、わたしより若く、物心ついた頃に冷戦体制崩壊、左翼言説はあらかじめ一切嘲笑の対象でしかない、という世代である、ということなのかも知れない。
でも、わたしも20歳頃に呉智英の一連の著作とかを読んで以来、もはや人権ヒューマニズムを本気で信じているつもりはない。

わたしが差別を嫌いなのは、人権ヒューマニズムと関係なく、それを言ってる自分自身を省みず、ある特定の階層や民族、自分より劣る人間を一方的に貶めるという行為が、なんか人としてダサい、恥ずかしくみっともない行為だと感じるからである。
真の強者は今更わざわざ弱者を嘲ったりはしない。力への意志と超人思想を説いたニーチェは、ユダヤキリスト教を批判したが、それは理念的な意味であって、現実に、しょぼい失業者がもっと貧しいユダヤ人をバカにして憂さを晴らす光景には好感を示さなかったのではないか。
しかしである、この世から差別がなくならないのには、やはり理由があるのだ。

――ときて、やっと先日の寓話につながる論題。

フロムの『自由からの闘争』とか、一連の、ナチス前夜の社会を分析した書物を読むと、当時のドイツ・ヴァイマル共和国時代において、社会のスケープゴートとしてユダヤ人差別が浮上したのにも、まあ理由があるなと思わされる。
つまり、当時のドイツでは、第一次世界大戦までの旧プロイセン帝国の土着的な共同体社会の価値観が急速に崩壊し、またアメリカ資本の流入で都市化・消費社会化が進行していた。かくして、特に新しい若い世代には国民の一体感の基盤もなく、民は大地から切り離され、「よそ者同士の町」ができる。
それは不安だったろう。そこへ持ってきて莫大な敗戦賠償金と慢性的不況だ、不満を抱えた共同体がスケープゴートを求め、その一点に、特に土着的な共同体崩壊後に育った、価値観の共通基盤もない新しい若い世代が一足飛びに集まり、その点のみでやっと一致団結できた、というのも無理もあるまい、とね。

でまあ、ベタといえばベタだけど、わたしはこれと似たような構造を、現代の日本に感じるのである。共同体が積極的に共通価値観の基盤を見出せないとなると、マイナスの発想でスケープゴートの方に目が行くのは無理からぬことだろう。
いわんや、ネットやエロ同人誌に興じる人間なんて大抵、わたし自身もそうであるように、土着的な共同体価値観と無縁の浮き草的な若い人たちなんだろうし
(ま、件の「チョン批判」エロ同人誌の描き手も、きっと、直に捕まえてみれば、何の変哲もない普通のおとなしい礼儀正しい若者なんだろうなあ、と思うっすよ)……

……と、偉そうなことを考えながら、次に手に取った『マリア様がみてる』のエロくない同人誌を買って帰り、夜中に読みふけったりして一日が過ぎるのであった。