電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

そう、ノスタルジー商品でも再現不可能なものがある

ひょっとするとそれは意図的に捨象されているのかも知れない。それは何かというと、かつて、回転式チャンネルのテレビや花柄のポットと共にあった人間関係の形態だ。

線引き屋応援掲示板でも出てた話題だが、21世紀になっても、宇宙ステーションもアトムのようなロボットも実現してないじゃないか、ということが言われる。
それもさることながら、わたしが中高生位の頃、真剣に思っていたのは「21世紀になっても、嫁姑確執話なんかの昼ドラマをやってたら俺は物凄く嫌だ」とかいったことだった。嫁姑確執なんて、まさに宇宙ステーションとかの対極に位置する、ヌカミソの匂いがするイナカ臭い農村的土着的前近代的で、まったく理不尽で理解不能なものと思えていた。

で、実際21世紀になってみて、確かに、そうしたものは、昔ながらの家族制度が、都市化と核家族化と、なんとなく、別に必ずしも老親の面倒は見なくても構わない、なかなか結婚したり子供を作らなくても良い、親は親、自分は自分、人それぞれ、という価値観の普及で、ぼやけて目立たなくはなった。
が、別に「嫁姑確執なんて前近代的でバカバカしい」という近代的啓蒙的な(笑)価値観が積極的に普及し勝利したことによってそれが消滅したわけではないだろう。

――しかしだ、わたしが嫁姑確執なんて宇宙ステーションとかの対極に位置する前近代的でバカバカしいもの、と一方的に思いたがっているのは、実は、単にわたしが、30歳過ぎてなお、現実の世界に存在する生臭い即物的な人間関係から切り離されて、一人で子供部屋にいて無害に脱臭された昭和40年代のミニチュアを楽しんでるだけの、大きなお子ちゃまだからなのかも知れない。

エヴァンゲリオン』が話題になった頃、何かで読んだ言説で、確か、同作品をはじめ、昨今は、一個人の精神的問題を、一足飛びに世界の問題につなげている表現が多い、とか、そんな意見があったと思う。確かにそうも感じる。
(まあ『えば』に関しては、自分の親をはじめ、目の前にいる人間がわからない、という第一歩を正直に対象化しただけでも当時としては充分偉いとは思う。なにしろそうした問題の存在にさえ気付こうとしない人間だって少なくないんだから……)

たぶん、かつての時代は、世の中を認識する第一歩というのは、新聞の国際面の世界情勢や宇宙ステーションや死海文書のことを考える前に、まず、どう見てもダサい花柄ポットを好む母親や祖母といかに共存するか、とかいうことだったのだろう(笑)、いや、笑い話じゃない。
案外とそこらへんが『白い巨塔』にはあって、現代のTVドラマや映画や漫画やアニメとかに欠けてる普遍性だったのかも知れない。まあ、しかしそうだとすると、一見して前近代的俗世間と程遠いように見えるアカデミックな大学病院の中にこそ、そういうドロ臭い人間ドラマが今もリアリティを失わず残ってる、というのは実に皮肉な話だが。