政治的正しさと関係ない世代体験の刻印
矢作俊彦や長谷川和彦やショーケン等の団塊世代の「懲りなさ」は、やっぱ彼らには、60年代末の雰囲気というのが、現在政治的には否定されても、理屈以前の若者の体感としてとにかく楽しかった、ってことなんだろうな、という話になる。
また、吉田満や古山高麗雄らのような更に遡った戦中派世代にしても、大東亜戦争は侵略戦争か反白人解放戦争かとかいう政治的立場以前に、イベントとしての戦争に関わってしまった体に染みついたこだわりはその後の人生においても抜けなかったということだろう。
例えば、後世の歴史の教科書では、毛沢東は何千万人もの人命を奪ったポルポトやスターリンと並ぶ大悪党の独裁者、となっていても、それにリアルタイムに付き合った人間には、三国志の関羽や張飛のような半ば民間伝承の偶像めいたヒーローだった、とかいう体験の感覚は消し去りようがない。レニ・リーフェンシュタールも、戦後もヒトラーの話になるとうっかり少女のようにはしゃいだとかいうし。
そういや以前、ある元社会党員で歴年の組合活動家だったという60代の方と話したら、「1957年10月4日、これが何の日かわかるかい? 人工衛星スプートニクの打ち上げだよ。当時中学生の僕らはあれで『ああ、ソ連は未来の国なんだ』って思ったんだ」と懐かしげに語るのを聞いたことがある。
これらを笑うのはたやすい。しかし人間は結果的な理屈の正当性より、自分の個人的経験で体に刻印された実感で生きるものでもあることは否定できない。