電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

弱者の正当承認

結局、今の世で社会の主流になれんオタク男のロリコン志向ってのは、社会的には弱者である幼女が、同じく弱者の自分を肯定してくれる、ってこっちゃないか、と。
エヴァンゲリオン綾波なんてのは、当初本来まさにそういう「あんた男として弱い生き物だろ」ってのを無言の態度でグサリと指摘するよーな存在だった筈だが、いつの間にやら、それ以降のその綾波類型のヒロイン(人外の存在で薄幸そうな雰囲気の少女?)って、弱者男を都合よく優しく肯定する役割にすり替わってるような気がしてならない。
わかりやすい例をあげると、『無限のリヴァイアス』に出てきた、少女の姿をした宇宙船の精霊(?)とか、『忘却の旋律』に出てくる、少女の姿をした戦士だけに見える「忘却の旋律」だとかかなあ。
そういや以前、畏友奈落一騎氏は『ハイ・フィデリティ』と『グリンプス』を評して、最近は欧米でも、自立的な女とは対等に付き合えないようなサエない男が、自分と似たようなエキセントリックなトラウマ女と出会って傷の舐めない共感で自分を肯定してもらうとか、そんなんが共感を呼んで売れてると指摘していた(引きこもりが「自分よりダメな人を探してた」という少女と出会うという、滝本竜彦の『NHKにようこそ』も、大きくはその類型を脱してないと言えるかも知れない)
もっとも、神代辰巳の『アフリカの光』で、ラストにショーケン演じるサエない主人公が港町を去ろうとすると、それまでショーケンを陰から見守ってたサエない地味な少女がいきなり「ずっと貴方のことが好きだったのに」と声を掛けてくる展開も似たようなもんだから、この手の幻想はオタク世代に始まったこっちゃないだろう。だが、近年は特に、余りにその幻想の虫の良さに対する恥の意識がなくなってると思えてならない。矢作俊彦の『ららら科學の子』で、中国帰りのサエない中年男の主人公に、なんか家庭が複雑らしい女子高生が声をかけてくる展開とかもね……
少女をダシにするインテリ男と言えば、かつての宮台真司はそのように見えた。彼は女子高生を、従来の日本のオヤジ的価値観を解体するものとして肯定的に見ようとしていたが、その宮台自身が、既存の日本の社会システムに乗っかった大人の権威も地位もあるインテリ男だった。これは欺瞞じゃないかと思ってたが、後に宮台は正直に「自分は女子高生に殺されたいんだ」と言い出した。しかしそんなことはありえない、女子高生は勝手に生きてるだけで、意図的に大人の権威も地位もあるインテリ男を殺してくれるわけが無い。すると宮台は更に一歩進んで「自分が女子高生になりたいんだ」と言って女子高生のコスプレまでして見せた。ここまで来ればもう欺瞞とは思えない、宮台は少なくとも正直である。実際、彼は最近じゃもう女子高生だの、自分ではない他者のありようを借りて社会を批判するようなことはしなくなった。彼は結局、自分と少女は違うと認識したのであろう。