電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

元祖「最後にグサリと刺す綾波」

その辺に関連して、わたしがもっとも印象深い架空ロリータキャラの一人は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のレイチェルだったりする。
この小説版のレイチェルは、主人公のリックに、アンドロイド(レプリカント)であると見破られた後、リックの逃亡アンドロイド狩りに協力する、という基本は、映画『ブレードランナー』と同じだが、その背景となる思考が全然違う。
この物語のもう一人の主人公、廃人引きこもりのような社会不適格の落ちこぼれイジドアの許に身を寄せている逃亡アンドロイドのプリスは、レイチェルの同型だ。レイチェルは、自分と同じ顔同じ身体であり、しかも自らの意志で人間に反逆したプリスが存在していることを憎んでいる。
レイチェルは自分が「人間に逆らえないアンドロイド」であることへの露悪的居直りのように、リックに色仕掛けで迫って共犯意識を作る。
このくだりは冗談抜きにまるでエロゲーみたいだ、リックは金遣いの荒い女房に頭の上がらないさえない中年だ(これはディック自身の自画像である)、そんな男に、アンドロイド美少女のレイチェルが自分の身体を差し出してくるわけである(この辺は、ディック自身が年下の寄るべないヒッピー少女と付き合ってたのを反映してる、と思われる)、しかもレイチェルは、自分らアンドロイドは肉欲を自分で抑えられないんだなどと言うし、彼女はおっぱいのほとんどない、中性的な、幼女体型だという描写まである。どうよ?
で、そんな子悪魔美少女のアンドロイドにまんまと唆されたリックが、強敵の逃亡アンドロイドたちを葬り去り(唯一の友達ができたイジドアを途方に暮れさせ)自宅に帰ると、リックは妻から、この一仕事の収入を当てこんで大枚はたいて買った本物の山羊(この世界では、自然保護の一貫で動物を買うことが暗黙の義務のようになってるが、本物の動物は高く、見栄のための模造動物が普及している)を、正体不明の女(レイチェルである)がやってきてぶっ殺して去って行った、と聞かされる。
リックはレイチェルとねんごろにはなったものの、何ら、心が通じ合ったわけでもなんでもない。レイチェルはリックとの行為の後、「アンドロイドは子供を作れないけれど、それは損失なのかしら」とつぶやくが、リックはそれをろくに相手にしてない。レイチェルはリックをも(というか、自分ら人工の生命と違う本物の生命を)妬み、憎んでいたのだ。
――とまあ、リックとレイチェルの関係では、人間外の存在で非力なロリータのレイチェルが、同じく社会的にはサエない男であるリックを優しく肯定してくれるどころか、リックの無自覚な傲慢、所詮こいつも自分とは別種の弱者であるレイチェルの気持なんざ本質的にはわかってないし、弱者少数者同士わかりあえるなんてきれいで簡単なもんじゃない、という断絶をグサリと突きつけてくれたわけである。
だが、それはリックにとっては、自分を現実に立ち返らせてくれることであった。俺は汚染された地球にへばりつき、口の悪い女房と一緒に、模造動物を飼って生きてくしかない、でも、それが現実、アンドロイドじゃない俺の等身大なんだから、いいじゃねえか、と。
サイバー・ニューエイジSFの鼻祖のように見られるディックだが、彼のSFというのは、実は社会不適合中年の自分探し私小説ばっかである。そんな彼の持ってた自己対象化の誠実さが、後世の後継者たちには乏しく見えるのは残念。
でも「ディック」って俗語で「男根」なのはまったく皮肉としか言いようないけど(笑)