電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

器械による生活スタイルの変容の実例A

先日、多摩センターに行った時に考えたことの続きのような話。
この10年くらい、情けなくも結局、定職についたりつかなったりを繰り返しているわけだが、今となってはまったくの昔話、10年近く前、年長の知人から「パソコン持つなゲームするな暇な自分を直視しろ」と忠告されたことがある。
以前は、夏場など仕事もなく一人で自室にいると、そのことに何か後ろめたいよーな、いたたまれないよーな気分になってきて、部屋を飛び出し、まったく無目的に自転車で徘徊することがよくあった。それがまだ日の高い時間なら、午後の日差しの中、近所の河沿いをえんえん無意味に疾走した末、結局、冷房の効いた図書館にでも入り、夜なら、深夜営業のTSUTAYAに行ってえんえん立ち読みしたり、何も借りないくせにレンタルビデオコーナーをほっつき歩いたり、そのTSUTAYAさえ閉まってる時間だと、無意味に公園を歩いてコンビニでアイスクリームを買って帰ったりした。
が、今日ふと、この2年ばかり、なんか暇な時期もたまにあったのに、そういやそういうことをしなくなったな、と気づいた。
なぜだ? まだ日の高い時間だったら家電量販店か大型総合書店か、もっとオタク向けな漫画専門書店かホビーショップの類に入り、夜は、ネットが常時接続になったからだ、と結論する――気づいてみりゃ、拍子抜けするような何とも単純なことである。
要するに「やることもなく部屋に一人でいる、何か後ろめたい」という感覚が(他にも自分のよーな人間が集まってるかのように思われる場が存在することで)適当に紛らわしてくれる装置(じつは紛らわされるだけで、本質的に解決してない)によって、いつの間にか、自分でも気づかないうちに(ここが重要!!)「暇な自分を直視する」隙間が埋められてしまった、ってことだ。
かつて、鉄道だのの交通機関や炊飯器だの掃除機だのの家電製品の普及が身体的な生活スタイルから、日常における庶民のものの感じ方、考え方まで変えるようになった、というようなことが言われる(昔は、生活するだけで一日が過ぎた。だから余計なことを考える余裕は限られていた)。これもひょっとすると、その手の変化といえるのではないか、と、考えると、これは案外と10年後20年後には(少なくとも自分の中では)民俗学的歴史証言になるかも知れない、と感じたので、とりあえず覚え書きにしておく。