電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

神なき世代の神殺し文学

で、先月後半仕事の合間をかけてやっと読破した、小説版『終戦のローレレイ』について。
すでに同じ事を言ってる人もいるようだが、この書の、最大のポイントは、実はひょっとしたら「『日本民族』への愛国心のため天皇を殺すことを考えた男」を描いたことではないだろうか。
この物語の黒幕、海軍の浅倉大佐の本心の試みは、日本が真に強く生まれ変わるため、敢えて「東京に原爆を落とす」ことで、主人公たちは、無辜の都民を何万人も殺すのは良くない、といってそれに反しようとするわけだが、ここで重要なのは、浅倉が(少なくとも昭和20年時点の)日本人を根底から叩き直すには天皇を殺すしかない、という考えを明確に持っている、と描かれていることである。
当時の日本人のほとんどは「ここで戦争を止めたら、陛下に申し訳ない」という心理で戦争を続けていた。だがその「陛下に申し訳ない」は、じつは「皆に申し訳ない」と同義だった。なぜなら、日本人は、特定の指導者に従うのではなく「場」の「世間」の「空気」に従う民族だからで、当時、その「場」の「世間」の「空気」を一方向にまとめるのに利用されてきたのが天皇制だった。
だからここでの「陛下」とは、もはや生身の人間、裕仁個人ではなく、天皇を頂点にした、責任回避のシステムでしかない。戦争を進めたい側も「俺が戦争を進めたい」とは言わず「陛下の御意志」と言うのが決まりだった(人に責任押し付けやがって、この野郎!)
浅倉はそのような日本人気質の愚かさを熟知し、日本人が、アメリカにもソ連にも屈せず、国家を失ってなお民族のアイデンティティを強く持って生き延びるには、皇居ごと帝都を吹っ飛ばすしかない、と考えた、というわけである。
(考えてみたらこれ「全人類をニュータイプに覚醒させるため、地球を人の住めない星にする」というシャアと同じだね。さすが福井もガンダム世代……)
浅倉の同志の一人は「日本民族万歳」と叫んで自決する。「天皇陛下万歳」ではなく「大日本帝国万歳」でもなく、かといって「お母ちゃーん」でもなく「日本民族万歳」と叫んで自決する日本軍人……超高性能の人力水中探索装置より、こっちの方が、よっぽどSFだ。
過去、ほかにも、戦争を媒介にした日本人論、戦前戦中の硬直した近視眼的な軍国主義の日本、戦後のアメリカ的な「豊かさ」によって腑抜けた日本をともに否定し、また、さらには、そのどちらでもない、第三の途としての、まっとうなナショナリズムを備えた日本、またそれを創りだそうとする人物、を描こうとした作品は存在する。
(現在進行中の作品で言えば、かわぐちかいじジパング』もだろう)
だが、単にわたしが不勉強で無知なせいもあるが、そこでは常に天皇の問題は曖昧にされてきたのではないか?
「戦前戦中の硬直した近視眼的な軍国主義の日本とも違う、まっとうなナショナリスムを備えた日本」を描こうとするなら、ほぼ必然的に「天皇抜きのナショナリズム」を考えなければならない。
例えば村上龍の『五分後の世界』での、対米抵抗運動を続ける「アンダーグラウンド」の日本兵たちは、日本の武士らしい質実剛健さと、責任の主体を曖昧にしない近代西欧的な自立性を持った、理想的な日本軍人と描かれるが、この作品では、天皇は敗戦時にスイスに亡命したことになっている。
また、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』では、敗戦時に東西に分割され、天皇を失った東日本で育った平岡公威なる男が、父権を失った戦後日本を不甲斐なく思い、富士山を爆発させて日本を道連れに自殺を図る。
いずれも、天皇の不在を前提として、はじめて戦前戦中の軍国主義とも、戦後のアメリカニズムに毒された日本とも違う「第三の日本」を描き得たといえる。だが、作中でハッキリ昭和天皇を「殺す」ことに触れることはできなかった。ここが限界だったといえるだろう。
この「天皇抜きのナショナリズムの可能性」を、億面なくサラリと描いてしまったというのが、1968年生まれの福井が、冷戦体制崩壊昭和天皇死去(1989年)以降の世代であるゆえんではないか。