電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

どうせなら『大海獣パウラ』となる映画をやって欲しかった

で、(2)の点について言うと、なるほど、樋口の出世作である平成『ガメラ』シリーズ、特にパート3の『イリス覚醒』も、一部では評価が高いが、下手に少女の話なんぞにしたせいで、いまいち話が中途半端な感は拭えない。
しかしだ、改めてふと思った。樋口は『ローレライ』の企画に関して、原作担当の福井に、商業的な理由から「第二次世界大戦の話で、潜水艦で、あと少女を出すこと」と条件をつけたというが、樋口真嗣という人自体は、実はあんまり少女自体には興味がないんじゃないのか? と。
要するに、商売のため添え物的に「萌え要素」も入れた、という以上に、少女が出てくる必然が感じられないのだ。だったら男の話で良いじゃん、と。
逆にいえば、少女を出すなら、添え物じゃなく、それが目を逸らしようない話のメインになってなきゃ生きないというものだろう。
以前、畏友の一人は、『ガメラ3 イリス覚醒』に対し「目の前でガメラに家族を殺されてPTSDになった、なんて設定の女の子(前田愛演じる比良坂)が、クライマックスであんなにあっさり立ち直るか」と言っていた。そう、同作品もいっそ、ガメラへの復讐心からイリスを育てていた比良坂がブチ切れ大暴れの末に破滅、最後は、そんで死なないまでも頭真っ白になっちゃっうとか、そんな話に徹してくれた方が、いっそカタルシスがあるのになあ、と思うことしきり。
(そんな企画通らないだって? 富野由悠季ならやるぞ! まあ、そればっかやられても困るが)
樋口真嗣、潜水艦、少女、ときて連想するのは(昨年再放送してた)『ふしぎの海のナディア』だ。
もっとも、ナディアのキャラクターは庵野秀明の産物だが、これは「しょせん男が作ったキャラ」と言われつつ、その人格破綻の徹底ぶりにおいて、良くも悪くも強烈なインパクトを残している。
リタルタイム放送当時、毎回、生き物を殺す奴は一切許さんだの、大人には一切心を開かないだの、そのくせ一人で生きてゆける力もないという、とんでもないバカ娘のナディアが、すったもんだの末、少しは他者を受け入れるようになったかに見えながら、次の回では前の話が何も生きてないかのごとく周囲を拒絶して振り回すことの繰り返しに閉口したが(特に、樋口真嗣が演出を担当した中盤の「南の島編」)、考えてみると「人間そうは簡単に良く変わらない」→「しかし、変わらんなりに一度できた周囲との関係性は持続してゆく」という辺り、意外にリアルに感じなくもない。
で、そのような徹底した、他者を受け入れられない人格破綻者として描かれたナディアが、クライマックス土壇場の展開で、自分を生かしてくれる周囲の人間の存在の意味に気づき、躊躇なく他者を切り捨てる敵首領ガーゴイルとの対峙に至るからこそ、カタルシスが生まれるわけである。
あと、庵野秀明作品(『ふしぎの海のナディア』『エヴァンゲリオン』)に限らずGAINAX作品(山賀博之の『王立宇宙軍』、鶴巻の『フリクリ』ほか)では、大抵、少女キャラって、しょうもない日常を生きてる男の子にとっての、外部世界、他者の象徴だったりするわけだが、樋口作品ではそういう要素はいまいち乏しい。
まあでも、考えてみたら『ローレライ』は樋口にとって、特技監督ではなく、本編監督第一作だし、今後の展開に期待、ということか。
あと『ローレライ』見せ方、演出とかで、感心した場面は少なくない。
冒頭、浅倉と絹見艦長がドック内の潜水艦伊507を見る場面はCG合成ながら実物大セットかと思ったぐらいだし、中盤、浅倉が海軍の中枢幹部達に自決を迫る場面「最後の晩餐だ」と言って、空の皿の上に切腹用の小刀が配られる演出とかは、絵ヅラ的にはあざとくも上手いと思った。浅倉の同志土谷の設定を完全に変え、若い少尉としたのは、三島由紀夫と森田必勝を感じさせなくもない。
せっかく興業的には成功らしいんだから、あとは徐々に深みをつけて欲しいところ。