電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ものわかりが良すぎる日本軍人たち

映画の『ローレライ』にしても、小説の『終戦のローレライ』にしても、自分と世代の近いクリエイターの作品としては好意的に評価したくあり、これが力作なのは認めるが、どうしても、突っ込みたくなる箇所は少なくない。
ただしそれは、自分が同じような話を作ろうとしても、同じようなことになってしまいそうな気が凄くする、という自戒込みの上でだ。
全体的に、登場人物が物分り良すぎるのである。
まずヒロインのパウラが、登場後からしばらくは頑なな怖さを漂わせているが、主人公格の潜水艇乗りの折笠と、ある程度打ち解けて以降、感情を露わにするのが早すぎ、また落差が大きすぎる。
上記の『ガメラ3 イリス覚醒』の話と同じだが、ずっと潜水艇の中しか知らなかった娘が、知り合って間もない人間相手に、数日でそうそう簡単に人間性を回復できるもんじゃないだろう。
また、鬼軍曹役の田口がいい奴になるのが早すぎ。ドイツからローレライ・システムを持ち込んだSS士官フリッツを嫌っていた田口が、ローレライ・システム回収のため独断専行を犯したフリッツの拘束係を命じられつつ、しかし、ローレライ・システムの中核とはすなわち生きた人間の少女で、そのパウラはフリッツの妹だと知ると、黙って妹には会わせてやる場面は良かった。
だが、その後も田口のフリッツへの嫌悪自体は持続、で良かったのではないか? フリッツ個人とうちとける気は毛頭ないが「数日間に渡りローレライの中に取り残されてたのは実の妹、という事実をずっと隠してた兄」の心情は汲んでやったというような描き方で。
また、そのフリッツが途中から良い奴になり過ぎ(こればっか)。前半、フリッツが徹底して伊507乗組員と打ち解けようとせず、いざとなったら妹と一緒に逃げることしか考えてないのは良かったが、それが生き延びるために「一蓮托生」を受け入れた中盤以降も、妹パウラを挟んで、折笠に恋敵のような感情を抱くぐらいの描写があるべきだったのではないか。
そりゃベタな展開過ぎると言われそうだが「人の心、裏の裏は、ただの表」とも言う。感情を押し殺した冷徹な人間ほど、無自覚にたちの悪い嫉妬とかをするものでもある(富野だったら絶対そう描くね。しかし、だからってフリッツが全面的に嫌な奴とも描かずにだ)。
クライマックスで絹見艦長が、帝国海軍の正式な命令と関係なく、とにかく「第三の原爆」を阻止すべく勝ち目のない最終決戦に出るに当たり、悪意はないが、帝国海軍の正式な命令にしか従えないという四角四面さで「空回りの風紀委員」みたいな存在だった甲板士官の小松少尉らが、命が惜しいわけではないが、どうしても納得できずに艦を降りてしまう、というのは、確かに、ここでこの小松まで心変わりして一致団結で一緒に戦ったら、まったくの嘘、キレイゴト過ぎ、という意味では正しい描写と思えた。
しかし、更にあえて言うと「場からの脱落」を最大に怖れる当時の日本人の心性を考えれば、小松のような男は「もはや自分は正規の帝国海軍軍人ではなく、さりとて、自立した一個人として決断し、行動することもできない」という葛藤に立たされれば、もっとヤケクソ的な極端な行動(アメリカ、あるいは浅倉に寝返り)に出るものではないか、とも思える。
――以上こうした点を鑑みるに、端的に言って、頭で作ったシリアスドラマを目指しすぎた結果「極限状態に置かれた時の、特に日本人の、みっともなさ」がリアルに描ききれてないように感じられた。
例えば、極端な例を言えば、伊507に「パウラを強姦しようとするバカ」が一人くらいは居てもよかったのではないか。
オイそんなもんとても商業的に描けねえよ! と言われそうだが、真面目に考えてみてくれ、伊507の乗組員はとても紳士的なエリートなんかじゃないという設定で、急場しのぎ的にかき集められ、国から死を命じられた連中だ、そして祖国を離れ何百海里、地上のルールはもう通用しない、そこで、本来、男ばっかりの潜水艦に、女がいたと知れる、しかも言葉も通じない異人らしい……となりゃ旅の恥はかき捨て、そんぐらいやろうと考えるバカは出てきておかしくあるまい。
(食糧事情も悪く、戦闘の合間で、体力的に疲弊して強姦などできない、という見方もできる。が、せっぱ詰まっているからこそ、そういう蛮行に及ぶ心理というのは大いにある)
これは別に左翼的視点から日本軍人の野蛮さを描けというのではない。どこにでも有りえる心理だ。
宇宙戦艦ヤマト』のTV版では、アニメにも関わらず、これに近い話があったはずだ(ヤマトも決して、美しい一致団結だけでなく、イスカンダルに着いた後、森雪を襲うバカが出てくる)
――だが、こう書くとおこがましいが、以上、そういうミもフタもない「みっともなさ」が描ききれない、物分りの良すぎる人物描写になってしまう気持ちも、なんだかわかる気がするのだ。
要するに、筆者福井自身、自分で書いてる登場人物に思い入れて、悪い人間として描きたくない、ということなのだろう。それが悪いとは言わない。
しかし、決して悪意を込めて描くわけでなく「人間、本質から悪い人じゃないけど、そういうことってあるよね」と描けてこそ、リアルな戦争文学だろう。