電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

戦争はたた悲劇的なだけでも英雄的なだけでもない

どうも、戦後育ちでメディア経由でしか戦争を知らない我々が頭で戦争を考えようとすると、極端に、悲劇的だったり、英雄的だったり一辺倒というイメージになってしまうような気がする。
現実には、戦争つったって、24時間365日敵と撃ち合ってるわけではない。その合間には本当にただの、散文的な日常があり、真剣な兵士でも、その時は英雄でもなければ軍国主義の走狗でさえない、間抜けな「ただの人」になっている。
いやいっそ、敵と打ち合ってる最中こそ、「撃たれりゃ死ぬだけだ」と気が楽なのに、そうは楽に死ねない中途半端な居心地の悪さが漂うものなのかも知れない。
例えば、現実の従軍体験者である古山高麗雄の戦争小説では、えんえん繰り返し繰り返し、食い物の話ばかり書いている「食事は一日二食、おかずはにんにくが一粒、あるいは紙のような味がする乾燥野菜、あるいは『ジャングル野菜』と呼ばれた喰える雑草」この言葉が、もう何度も何度も出てくる。
これは別に、彼が食い意地張った意地汚い男だったというわけではないだろう。敵と戦うだの、大東亜戦争の意義だの以前に、とにかく喰って生き延びることが手一杯で、そのことに対し、自分がいかに無力だったか、そのことの体感が大きかったことを示しているんだろうと思える。
また、例えば岡本喜八の戦争映画、『肉弾』では両腕を失った男が小便しようとしてハタと困る場面があるが、これとかは「名誉の負傷」とか、悲惨というより、ただ即物的に、もう苦笑するしかないというような間抜け感として描かれている。
結局、映画の『ローレライ』も小説版も、足りない部分ってのは、そういう部分じゃないのか、と感じた。また、それは、現実の戦争を知らずとも、また律儀に資料から現実の戦争をお勉強しなくとも、自分自身の日常の姿から描き出せるのではないか、とも思える。
もうちょっと、戦争と平時は、我々が思っているほどに極端に違うものではなく、戦争という特殊な状況が、人が普段から内在的に持ってる要素を端的にあぶり出す、というあたりに踏み込んだ表現が現れて欲しい。
というか、これは我々世代以降の表現者の課題だな。