電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「みんな」の実体って何ぞや?

つい先日、高井守氏の『永久保存版』からの引用で「日本人には『みんなに迷惑をかけない』を超える倫理的基準がない」という論を提示したら、やけに注目されてるらしい。
よしわかった、いい機会だ。なんで「俺が」それがマズいと思うかの説を書く。
端的に言うと、それは、明確なる指導者なく(それゆえ責任も追及しにくい)「下からのファシズム」を生むからである。
「下からのファシズム」とはいかなるもであるか?
大東亜戦争の開戦は、昭和初期の日本経済の窮乏から遡れば得ない側面が多数あったが、さてその末期、サイパンは落ち、硫黄島は落ち、各地は空襲にさらされ、あのようなどー考えても勝ちようない戦況下、なんで国民は戦争を続けたか?
軍部の命令、強制だけではない、庶民大衆が自発的に、それを続けてたがってもいたからだ。そのキーワードは「ここで戦争を止めたら『陛下に申し訳ない』」である。
だが、それって本当か?
「陛下に申し訳ない」というのは、実は「(俺だけ戦争やめたい等と言い出すのは)(それまで死に物狂いで戦って、死んでしまったりした)皆に申し訳ない」とゆーことだったのではないか?
当時は単に「陛下」が「みんな」の中心あるいは共通の反射板で、結局それに従っていただけではないか。
一面そうとしか考えられない。
というのは、実際、戦後、今度は「民主主義、平和主義が正義!」となったら、皆が皆、そっちを賛同するようになった、という事態を見て思う。
要するに、戦中も戦後も、単にその時隣にいる奴に合わせてるだけ、という点は変わらんのじゃねえのか?