電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

読者を一切傷つけず「正義の被害者」気分にさせてくれる漫画

発売直後からベストセラーと言われつつどこの書店にもなかった『マンガ嫌韓流』が、新宿紀伊国屋書店とかにも入るようになったので、ようやく一応読んでみる。
刊行前、この本の噂を耳にしてから危惧していたのは、「ひょっとして雁屋哲原作の『蝙蝠を撃て!』の保守版みたいなもんじゃねえのか?」という思いだった。
雁屋原作の同作品(作画は、本作品で石ノ森プロの信頼を下げたシュガー佐藤)は『週刊金曜日』に連載され、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言』への対抗が感じられなくもない作品だった。
『ゴー宣』が基本的に筆者小林個人の「ごーまん」で展開するのに対し、『蝙蝠を撃て!』は民主的合議制のつもりなのか、作中の主人公が数人いて多様な角度から保守文化人批判の傍証を語るのだが、これが却って白々しくて仕方なかったのだ。要するに、どうせあらかじめある結論に向かって同じ意見の登場人物同士でうなづき合ってるだけ。まるで北朝鮮みたいだ。
で、『マンガ嫌韓流』、その点はまあ想像通り。主人公と友人と女友達が三人で同意見をうなずき合ってるだけ。書かれてる内容は一面まったく正しい、だが、見事にただの絵解きマンガ。共産党のマンガであってもおかしくない。だが、それでもウケてるらしい。
少なくとも『ゴー宣』はこの点が白々しくキモくはなかった。作者自ら自分個人の主観と独断だと居直り、それを語る自分自身をまで「ただの説明役」ではなく「ギャグマンガキャラクター」として戯画化してるからだ(だが、最近の『新ゴー宣』では、同意見のアシスタントや秘書とうなづき合ってる描写も結構あり、そこは好きになれない)。
マンガ嫌韓流』で唯一グッと来たのが、死にかけの爺さんが、自分らは朝鮮統治時代、朝鮮を良くしようと努力したのに云々と無念を語る場面。爺さん達にはそう言う資格がある、現実、爺さん達は本気で血も汗も流した(一部ひどい事やった人もいたろうが)。
が、現在の我々世代は何もやってないまま被害者面で権利主張したいだけ違うんか?
『新ゴー宣戦争論』から『マンガ嫌韓流』は見事な後退だ。何しろ「昔の日本人はこんなに偉大だった」から、「今の日本人は黙って立ってるだけで被害者、だから正義」である。
だが、そういう「俺の方こそ被害者、だから正義」という怠惰な自己正当化が蔓延した背景には、「何かやる奴=(結果に功罪の両側面があっても)悪」「被害者=(何も生み出してなくても)正義」という思考を蔓延させた戦後民主主義人権左翼の罪も重いのだ。