電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

無駄に贅沢なる楽屋落ちオフザケ

で、中野区から渋谷まで自転車で出かけて『立喰師列伝』を観る。
自慢じゃねえが『攻殻機動隊』も『イノセンス』もレンタルビデオえ一回しか観てないが、『紅い眼鏡』と『ケルベロス Stray Dog』と『トーキングヘッド』なら映画館で数回観てるわたしとしては、これは映画館で観ないわけに行かないだろう、たとえ上映館が渋谷パルコの最上階などという俺みてーな人種には忌まわしきオシャレスポットっぽい場所であっても。
――で、感想。
予想はしてたが、まあ、自作のセルフパロディみたいな場面ばっか、わたしは結構笑えたけど、これ、相当の押井守ファンかつ古株のオタクでないと、わかんねえネタばっかだろ、なぜかどさくさに紛れて一瞬ダイコンフィルム版『帰ってきたウルトラマン』(演じてるのは大学生当時の庵野秀明)まで出てくるし。
言われ尽くされてることだが、今回こんなバカ映画の製作が許されたのも『イノセンス』の国際的ヒット(わたしは、相変わらずブレードランナーのパクリみたいなテクノオリエンタリズムかよ? でもそれがウケるんだよなあ、としか思わなかったが)のご褒美なのだろう。なんかもう、押井は、商業的に成功作を作った金で次は趣味に走った自己満足作品を作るのがパターン化してる。
――ただし、わたしは最初の『紅い眼鏡』(1987年)は、押井守の一番正直な部分が良く出たものとしてかなり好きだった、あれはまだ今のような押井評価が固まってない時期、恐るべき低予算下で、しかし、自分が作りたいから作ったという感じがあったからだ。
その結果、鈴木清順をパクったアホなATGもどきにしかならんかったが、千葉繁の熱演もあって、時代に取り残された者の脱力感と、しかしウェットな感傷に浸らず、それを自分でカラっと突き放して自嘲する感がよく漂ってた。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』に印象が似ている。
で、『立喰師列伝』、まあ、わたしのような人間には充分面白く楽しめはした、しかし、どうしても『紅い眼鏡』や『トーキングヘッド』のような、押井個人の生の何かが伝わってくる、という印象は乏しかった。
押井的には「長年ずっとやりたかったバカなお遊びを真剣にやってみること」がやっと実現した作品なんだろうけど……既に大家になっちまった人間が、お許しを頂いて作らせて貰った趣味の自己満足作品かなあ? という印象は拭えない。
まあ、まだ80年代当時は、世間一般から「しょせんアニメ」と見られたからこそ、斬新な作品を作ってやろうと頑張ってたが、いつしかアニメは日本の誇る金ヅル産業……いやもとい日本の誇る文化だから押井さんのようなアニメ監督さんも大家です、ってことになっちまって、ある意味余生モードだったとしても、それは仕方ないのかも知れない。
同じく世間からはある意味余生モードと見られつつ、現役意識バリバリで過去の自分の作風を覆そうとあくせくしてるのが富野由悠季で、その熱意は一部空回りとの指摘もあるが、しばし前の『サイゾー』での劇場版Zガンダム小特集で畏友中川大地氏も指摘した通り、富野は「趣味で作品を作るな」と、押井に手厳しい発言をしている。
どうもかつての押井は、自分は変化球投手と割り切った上で、一方自分と対極にある正統派の王として宮崎駿を強く意識してたのかな? という形跡があり、同じく押井の趣味実写映画の『トーキングヘッド』では、宮崎の「ニ馬力」をパクったような「八百馬力」という架空のアニメスタジオ名が出てくる。ところが上記のような事情を反映してか(?)今回の『立喰師列伝』では、画面にあざとくガンプラを写したりガンダムの効果音を入れたり、富野由悠季へのあてこすりのよ〜にも見えなくない描写が見える。
しかしである、かつての時代の文化人に比べれば引きこもり的相互没交渉個人主義が強いオタク産業界で、こんな、かつての「文士劇」みたいな豪華なオールスター楽屋落ち遊び(特に樋口真嗣の演じる「牛丼の牛五郎」なんか最高に笑えた)をやってのけるセンスのある人間も押井しかいないわな、とも思った。そういう意味で今回は「押井守という役割」を改めて高く評価したい。