電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「喰い歩きの自由」という戦後

さて、『立喰師列伝』は、無銭飲食を生業とする「立喰師」なる人々を、戦後に出現した、かつての時代の山窩(これ自体、実在したのか不明の、伝説の存在である)のような漂泊民として民俗学っぽく扱う、という体裁を取っている。
この「民俗学っぽく」という部分に真面目にツッコミを入れるのは野暮の極みだが、それでもふと思ったことがある。
山窩は山の民であるから、普段は山の中の自然の木の実や川の魚を食ってると考えられていた(山窩は絶対に平地の農産物たる米を食わないとされていた)。
だが、食物を自前で栽培するでなく自然から採取するでもなく「飲食店を転々とする漂泊民」なんてもんが成立するのは、確実に都市部のみ、それも広く成立し得そうなのは、物が溢れた戦後だよな、ということである。
――って、何を今更、と言われそうだが、『立喰師列伝』の作中では、やけに「戦後」という言葉を乱発し「立喰師は戦後の精神の体現者」とかナントカ言ってるが(まあ、どうせただの、わざと大真面目ぶったオフザケなんだけど)、この、戦後とは即ち「モノが溢れる時代」「人がどこにでもゆける時代」、それゆえに都会の漂泊民(という設定)が成立しえた、という点に、果たして意識的なのか無意識なのかイマイチ不明である。
画面のヴィジュアルだけ見てると、押井の作品だから例によって60安保の国会議事堂やら学生運動の騒乱シーンの映像ばっか写して、そんで「戦後」「戦後の精神」という言葉を乱発するから、今どきの若い単純な純粋まっすぐ君右翼は、それだけで条件反射的に「押井はサヨク! けしからん!」としか思わずに拒絶してしまう恐れがあるが、押井の言う「戦後」「戦後の精神」というのは、どー考えても、戦前戦中の軍国主義に対する「自由」だの「平和」だの「民主主義」だのといった、そんな大それたものではない。むしろ焼け跡から発生した「混沌」だの「汚濁」だの「浮浪」だのこそが押井の言いたい「戦後」でないかという気がする。
押井守がなんで、飲食店を転々とする立喰師なんてもんを妄想したのかなあ、というヒントのひとつかもしれないものが、『紅い眼鏡サウンドトラックのライナーノーツに入ってる「犬だった男の話」という、どうやら自伝くさいコラムに出てくる。

学校も勉強も嫌いだった彼は、毎日電車には乗るものの乗り継ぎ降りることがどうしてもできず、あらぬ妄想に浸りながら環状線を何周もするのを日課にした。(中略)慌ただしく乗降を繰り返す周囲の人々を見てると、自分だけに目的がないことがひどく不思議な事に思え、しかし空腹だけは容赦なく襲いかかり彼の泡のような妄想を弾き飛ばした。当時は駅ソバの普及率が低く、彼は否応無く商店で買い求めたパンやら大福やらを道端でむさぼり喰った。まるで野良犬のようだとチラと思ったりした。

また、押井守原作、藤原カムイ作画の漫画『犬狼伝説』の後書きコラム「犬と立喰い」にはこんな一節がある。

…暗い若者たちが丼一杯の温もりとディスコミュニケーションを求めて集う不穏な空間。世の中が三歩歩けば総てを忘れる「猫の時代」へ流れてゆく中にあって、神話と伝説の時を醸成しつづけた都市のアナーキーなエアポケット。遊戯と化した都会の食文化に背を向けて己の丼の中に没入し、飢えを満たすことが心を満たすこととひとつであったあの遠い記憶を

もっとミもフタもない話をすると、確か『トーキングヘッド』の公開時(1992年)にテアトル池袋であった押井守オールナイトの舞台挨拶で聞いた話では、何でも押井監督も若い頃は「おうちの子」で、大学に進学する前後、都心に出て、いつでも何でも飲食店で喰いたい物を喰えるようになった時は、ちょっとした感動だった、と語っていたはずである。
要するに、イメージとしては「立喰」とは、家庭的団欒のウザさになじめぬ、居所のない若者の、若者らしい怠惰な自由と無作法、そんな場所にこそ安堵感を覚える人間同士の、決して相互に馴れ合わないが漠然としたユルい同胞意識の拠り所、みたいなものらしい。
今日であればそのよーなディスコミュニケーション気質の若者は引きこもりになるのかも知れないが、60〜70年代当時は、個室の子供部屋も、一人一台のテレビもパソコンも普及してないし、部屋にいたってしなかたないので、引きこもりならぬほっつき歩きになったのだろう……この感覚、わたしはなんだか他人事のように思えない、中高生当時、毎日、なんとなく家に帰りたくなくて、学校帰り、無駄に遅くまでAV機器屋やレコード屋や本屋をほっつき歩くのが日課だった、今もそんな当時の癖が抜けてない部分がある。
まあしかし、そんなスタイルが成立しえるのも、物の溢れた「パンとサーカス」の「戦後」ってことなのだろう。